高校 通算 51 本塁打。 「怪物」高校野球通算ホームラントップ10はプロで活躍したのか?

本塁打

高校 通算 51 本塁打

定義 [ ]• 打者が打った正規の打球が、 かあるいは「野手以外のもの」に触れることなく(これを「インフライトの状態」という)、両翼のファウルラインとフェンスの交差地点の間(交差地点上を含む)を通過してプレイングフィールドの外へ出た場合。 または、ファウルラインがフェンスと交差する地点から垂直に伸びる、もしくはポールのフェアゾーン側に伸びている長さ数十センチメートルの金網に当たった場合。 「プレイングフィールドの外へ出る」とは、に入ること、更にはスタンドを越して球場外へ出ること(場外本塁打)を意味する。 プレイングフィールドの外にある壁(バックスクリーンなど)に当たって跳ね返り再びフィールドに戻った場合も含まれる。 「インフライトの状態」でプレイングフィールドの外へ出るとは、野手のグラブなどをかすめてフィールド外に出る場合のみならず、本来ならフィールド外に出ないような飛球が野手のグラブや頭などに当たり跳ね返ったためにスタンドに入った場合も含む。 が明らかに上記1になるであろうと判断した打球に対して、野手が、グローブや帽子などを本来身につけるべき場所から外して投げつけ、現実に打球の進路を変えた場合。 ただし、投げつけても、打球に当たらなければそのまま競技続行である。 上記1、2の場合はとなり、審判員は右手を頭上で回すジェスチャーとともに「ホームラン」を宣告し、打者を含めた全てのには本塁までのが与えられる。 走者は本塁まで正規の走塁を行い、その数がとなる。 1点ならソロ、2点なら2ラン、3点なら3ラン、4点なら満塁あるいはグランドスラムと呼ぶ。 打者走者が正規に本塁まで走塁し得点が認められたとき、打者に本塁打が記録される。 「インフライトの状態」とは、打者が打った打球がまだ地面かあるいは「野手以外のもの」に触れていない状態をいうので、一度野手に触れた後、地面に落ちることなくスタンドに入った場合も、「インフライトの状態でプレイングフィールドの外へ出た」ことになる。 すなわち、フェア地域で野手に触れた打球で、まだ地面に落ちていないものが上記の定義1、2に該当する場合は本塁打であり、審判員によって「ホームラン」が宣告される。 ただし、一度野手が触れた打球は、その時点でフェアかファウルかが確定する。 したがって、野手がファウルグラウンドで打球に触れ、インフライトの状態のままフェアゾーン側のスタンドに入った場合は、ファウルボールである。 一方、野手がフェアグラウンドで打球に触れ、インフライトの状態のままファウルゾーン側のスタンドに入った場合は、ボールデッドになり、審判員によって二塁打(エンタイトルツーベース)が宣告される。 野手がフェンスの上に登りジャンプして捕球を試みることなども許されている。 フェンスに登った野手が、本塁打になりそうな打球をプレイングフィールド内で捕球した場合は、捕球したままプレイングフィールド内に残ればアウト、打球に触れたが、ボールがグラウンドに落ちた場合はボールインプレイとなる。 また、捕球した選手ごとスタンドへ入ってしまった場合、審判員が正規の捕球とみなさなければ本塁打、正規の捕球の後にスタンドに入ったと判定した場合は、打者はアウトになり、ボールデッドとなって、無死もしくは一死の場合は塁上の走者に1個の安全進塁権(テイクワンベース)が与えられる (1979年に2. 15「キャッチ」【原注】 が書き加えられたが、アウトになるルール自体が改正されたわけではない)。 と同等の行為であるが、ボールデッド状態の為この場合は走者がアウトになる事は無い。 なお、フェンスに登るなどしている野手は危険を承知でプレイしているものとみなされ、仮に観衆の妨害を受けたとしても、審判員によって妨害が宣告されることはない。 ただし、観衆がフェンスを超えてプレイングフィールド側に手を出して野手を妨害したり打球に触れたりした場合は、審判員によって妨害が宣告され、ボールデッドとなる。 審判員は、妨害がなければ競技はどのような状態になったかを判断して、ボールデッド後の処置をとる。 打球が外野フェンスの頂上に当たった場合はその時点でフェアとなるが、はねた打球がスタンドに入ったとき、それを本塁打と判定するかどうかについてはグラウンドによって事情が異なる。 一般には、本塁打と判定するための境界線がフェンスの頂上に設定されているため、打球がその後スタンドに入るかポールに触れた場合は本塁打、プレイングフィールドに落下または野手が処理した場合はインプレーとなるが、例えばフェンス上に設置されている手すりなどがある場合の扱いは各野球場で定められており、この場合はその定められた境界線をフェンスの頂上に準ずるものとして扱う。 のフェア地域の天井や懸垂物などにボールが当たったり挟まったりした場合、その場所によって本塁打と認定するなど各球場ごとにが定められている。 詳しくはの項を参照のこと。 においては、2009年に試験導入、2010年より本塁打の判定に限りを完全導入した。 ビデオ判定適用第1号は3月27日ので行われた対でホームランを打ったである。 中堅フェンスの上部付近で跳ね返り、フェンス上部に当たって跳ね返ったとみてインプレーとし、「二塁打」になった。 だが、直後に審判団が審判室でビデオを確認した結果、「フェンスを越えており本塁打」と判定を覆した。 「ビデオでは打球が(ネット上部で)消えており、本塁打と判断した」と説明された。 ランニングホームラン [ ] 打者が打った打球のうち、一度でも地面に落ちたフェアボールを守備側がを伴うことなく処理する間に、が本塁まで進塁すると「ランニングホームラン」 (走本)となる。 この場合はであり、審判員の「ホームラン」の宣告はない。 記録上は上記1、2と同じく本塁打として記録される。 アベック本塁打 [ ] アベック本塁打(アベック弾、アベックホームラン、アベックホーマー、アベックアーチ、アベック砲)とは、同じ球団の2人の選手が同じ試合で放った本塁打をいう。 試合毎に回数で数える。 1つの試合の中で一方又は双方の選手が複数の本塁打を放って達成した場合も(放った本塁打数に合わせて増えることはなく)1回と数える。 2人の強打者が同時期に同球団に所属していなければあまり発生しない。 下記のように、特に有名なものは特別な呼称が付けられる場合がある。 との ()による106回、との ()による86回、と()の70回、との ()による62回が有名である。 本塁打数に関する記録 [ ]• 記録は2019年シーズン終了時 シーズン記録 [ ] 個人 [ ] 順位 選手名 所属球団 本塁打 記録年 出場試合 備考 1 60 2013年 130 セ・リーグ記録、日本記録 2 55 1964年 140 2001年 パ・リーグ記録(タイ) 2002年 128 5 54 1985年 126 6 52 1963年 150 1985年 130 8 51 1950年 王貞治 読売ジャイアンツ 1973年 T. ローズ 大阪近鉄バファローズ 2003年 138• 記録は2019年シーズン終了時 チーム [ ] 順位 球団名 本塁打 記録年 備考 1 259 2004年 セ・リーグ記録 2 239 1980年 パ・リーグ記録 3 読売ジャイアンツ 226 2010年 4 219 1980年 1985年 6 近鉄バファローズ 212 7 大阪近鉄バファローズ 211 2001年 8 205 1978年 読売ジャイアンツ 2003年 10 204 1980年 個人1試合最多本塁打 [ ] 選手名 所属球団 本塁打 記録日 対戦相手 球場 4 1951年8月1日 1964年5月3日 阪神タイガース 1980年4月20日 日本ハムファイターズ 1997年6月21日 2003年6月28日 年齢別シーズン最多本塁打数 [ ] 年齢 所属 選手名 本数 年 17歳 国鉄スワローズ 1本 1950年 18歳 西鉄ライオンズ 27本 1953年 19歳 東京ヤクルトスワローズ 36本 2019年 20歳 西鉄ライオンズ 36本 1953年 21歳 31本 1954年 西武ライオンズ 1988年 国鉄スワローズ 1955年 22歳 読売ジャイアンツ 38本 1962年 1996年 23歳 王貞治 40本 1963年 西武ライオンズ 1985年 24歳 読売ジャイアンツ 王貞治 55本 1964年 25歳 埼玉西武ライオンズ 46本 2008年 26歳 読売ジャイアンツ 王貞治 48本 1966年 埼玉西武ライオンズ 中村剛也 2009年 27歳 読売ジャイアンツ 王貞治 47本 1967年 埼玉西武ライオンズ 2018年 28歳 南海ホークス 52本 1963年 29歳 東京ヤクルトスワローズ 60本 2013年 30歳 西武ライオンズ 49本 2001年 31歳 55本 2002年 32歳 ロッテオリオンズ 52本 1985年 33歳 大阪近鉄バファローズ 55本 2001年 34歳 読売ジャイアンツ 王貞治 49本 1974年 35歳 大阪近鉄バファローズ T. ローズ 51本 2003年 36歳 読売ジャイアンツ 王貞治 49本 1976年 2010年 37歳 王貞治 50本 1977年 38歳 39本 1978年 ロッテオリオンズ 1971年 1950年 39歳 43本 2007年 40歳 南海ホークス 44本 1988年 41歳 東北楽天ゴールデンイーグルス 山崎武司 39本 2009年 42歳 オリックス・ブレーブス 門田博光 31本 1990年 43歳 読売ジャイアンツ 落合博満 21本 1996年 44歳 福岡ダイエーホークス 門田博光 7本 1992年 45歳 西武ライオンズ 野村克也 4本 1980年• 上記表の年齢はそのシーズンが開催される年に達する満年齢である。 豊田泰光、村上宗隆、町田行彦、岩本義行、門田博光は早生まれであり、アルトマンも日本の学齢に合わせると早生まれとなる。 最年長本塁打の記録はの45歳5か月である。 その他の記録 [ ] 個人 [ ] 記録 選手名 所属球団 記録年月日 備考 連続シーズン本塁打 27年 1989年 - 2015年 連続試合本塁打 7試合 王貞治 読売ジャイアンツ 1972年9月11日 - 9月20日 R. バース 阪神タイガース 1986年6月18日 - 6月26日 連続イニング本塁打 3イニング 1953年9月6日 読売ジャイアンツ 1956年8月4日 広島東洋カープ 1965年5月11日 田淵幸一 阪神タイガース 1976年8月25日 ヤクルトスワローズ 1978年5月6日 読売ジャイアンツ 1985年7月12日 清原和博 2001年6月9日 連続打席本塁打 4打席 大洋ホエールズ 1956年5月6日 ダブルヘッダー2試合で達成 王貞治 読売ジャイアンツ 1964年5月3日 阪急ブレーブス 1967年6月4日 - 6月6日 ロッテオリオンズ 1971年7月3日 - 7月4日 近鉄バファローズ 1974年4月29日 - 5月1日 大洋ホエールズ 1976年6月1日 - 6月2日 中日ドラゴンズ 1977年6月12日 - 6月14日 12日のダブルヘッダー第一試合からの3試合で達成 T. ソレイタ 日本ハムファイターズ 1980年9月4日 - 9月5日 中日ドラゴンズ 1981年9月20日 - 9月21日 R. バース 阪神タイガース 1986年5月31日 - 6月1日 広島東洋カープ 1990年5月10日 - 5月12日 1995年8月8日 - 8月9日 N. ウィルソン 日本ハムファイターズ 1997年6月21日 月間最多本塁打 18本 W. フリオ・フランコの年齢は公称であり、資料によっては上記の年齢と西暦が一致しない場合があり。 被本塁打 [ ] 被本塁打とは、がに打たれた本塁打のことを言う。 「 被弾」と呼ばれる事もある。 この率が低いほど本塁打を打たれにくい投手となる。 この被本塁打率の平均はにおいては1. 0ほどである。 但し、本拠地球場の本塁打によって変動しやすい。 NPB被本塁打記録 [ ] 通算記録 順位 選手名 被本塁打 被本塁打率 投球回 1 560 1. 10 4600. 1 2 490 1. 14 3865 3 412 0. 91 4086 4 380 1. 10 3113 5 379 0. 62 5526. 2 6 374 1. 00 3360. 2 7 370 0. 65 5130 8 365 0. 67 4899 9 362 0. 98 3336. 2 10 359 1. 37 2357. 記録は2018年シーズン終了時 シーズン記録 順位 選手名 所属球団 記録年 被本塁打 被本塁打率 投球回 備考 1 1977年 48 1. 91 226 セ・リーグ記録 2 1971年 42 1. 41 268 パ・リーグ記録(タイ) 広島東洋カープ 1977年 1. 33 284. 2 1980年 1. 84 205. 2 パ・リーグ記録(タイ) 1985年 1. 70 222. 1 6 近鉄バファローズ 1968年 41 1. 03 359 1980年 1. 75 211. 1 1986年 1. 88 195. 1 9 1976年 40 1. 38 260. 1 10 1950年 39 0. 89 395. 2 鈴木啓示 近鉄バファローズ 1971年 1. 20 291. 1 横浜大洋ホエールズ 1984年 1. 27 276. 2 1986年 1. 66 211. 記録は2018年シーズン終了時 1試合記録 選手名 所属球団 被本塁打 記録日 対戦相手 8 1949年4月26日 脚注 [ ] []• 05 a 5• アシストホームランとも呼ばれ、元のがの、元のがの放った打球を本塁打にしてしまっている。 は、 ()の放った打球が頭に当たり、これがフェンス外側へ飛んで、結果本塁打にしてしまったことがある。 その他、やも本塁打をアシストしてしまったことがある。 1960年8月9日のボストン・レッドソックス対クリーブランド・インディアンスの試合では、レッドソックス外野手の ()が、エンタイトル二塁打になるはずだったボールを偶然スタンドに蹴り込んでしまい、間の悪いアシストホームラン、しかも決勝打にしてしまうハプニングが起きている• 公認野球規則 本規則における用語の定義 25『フェアボール』 e , 32『ファウルボール』 d• 公認野球規則 5. 06 b 4 F• 公認野球規則 5. 06 c 3• 当時のもので現在は本規則における用語の定義 15『キャッチ』【原注】に記載されている。 公認野球規則 6. 01 e• 2014年度からはフェンス際の打球と適用範囲が広がっている。 : inside-the-park home run または inside-the-park homer。 も参照のこと。 - NPB. jp 日本野球機構 (シーズン中は毎日更新)• - NPB. jp 日本野球機構• - Baseball-Reference. com• - NPB. jp 日本野球機構• - NPB. jp 日本野球機構 関連項目 [ ]• - 「6ラン」は打球がバウンダリーと呼ばれる境界をノーバウンドで超えた場合に6点が与えられるもので、本塁打と性質が類似する。

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高校通算本塁打と高校公式戦通算本塁打|shachi|note

高校 通算 51 本塁打

徳丸天晴(智辯和歌山) 自主練習のこと。 徳丸は竹バットでロングティーを行い、打席に立ったライト線から次々とセンターフェンス近くまで飛ばす。 その打球は高い弾道でスラッガーとうかがえるものだった。 「下半身の安定性を求めています」と語るように、振り出しからフォロースルーまで無駄のない打撃フォームだった。 小学校3年生から野球を始めた徳丸。 その能力は大阪府内から知れ渡り、小学校6年にはタイガースジュニアのセレクションを受ける。 このセレクションには、三次テストまであり、まず一次テストでは遠投、50メートルを行って、絞っていき、その後、実技に入っていき、最終的に紅白戦を行い、代表18名が決まる。 徳丸は見事、厳しいテストを勝ち抜き、見事、タイガースジュニアに選ばれ、代表選手となった。 ここで学んだことは大きかった。 「当時コーチだった中谷さんから普段の返事や態度。 人として正しい生活行動、考えを教えていただきました。 そういう言葉が印象に残ってきて中学でも生きてきたかなと思っています」 中学では大阪東ボーイズに進み、投手・外野手を兼任し、4番打者として活躍。 中学1年生の時は165センチだったが、みるみる身長が伸びていき、中学3年には183センチまでに成長。 この時、右の強打者たちの映像を見ながらフォームを固め、中学2年間まで10本塁打ぐらいだったが、中学3年から一気に10本以上を放ち、中学通算22本塁打を放った強打者として活躍する。 また投手としても、最速138キロをマークする本格派右腕として注目を浴びていた。 に進むきっかけは中谷監督の存在だった。 「中谷さんから教えられたことは自分の考えに生きていることはかなりありましたし、実際に声もかけてもらって、またグラウンドまでいって見学するうちにに行きたいと思うようになりました」 こうしての入学が決まった。 そして高校入学してすぐの明石商との練習試合で4番として起用される。 徳丸としても驚きだった。 「第1試合で代打で安打を放ったので、4番として起用されることになりました」 中谷監督は「あのときは東妻(純平)が不調でしたし、また東妻が4番タイプということなかったので、タイミングが良いと思って変えることを決めました」 徳丸は4番で起用された試合で左腕投手から試合終盤に逆転3ランを放つ。 次の龍谷大平安との練習試合でも4番打者として起用され、12打数6安打。 6安打のうち長打は4本と活躍を見せる。 この打撃を見て、中谷監督は「2,3年生で東妻以外に適任と思える選手はいなかったこと。 また徳丸には4番で試したいと思わせるスケールの大きさ、スイングの速さがありました」と徳丸の4番打者起用を決める。

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高校通算本塁打ランキング1位は清宮で2位は?数え方は公式戦限定?

高校 通算 51 本塁打

今年の高校生野手では明石商の来田 涼斗や、東海大相模の西川 僚祐などスラッガーが揃っている。 各地の独自大会でどのようなバッティングを見せるのか。 注目が集まる。 その中で高校通算58本塁打をマークしているのが松阪商の阪本和樹だ。 松阪商では1年生の夏からベンチ入りを果たし、4番としてチームの打線の中心を担うスラッガーだ。 そんな阪本に電話取材で話を聞かせていただき、ここまでの歩みや夏への意気込みを聞かせてもらった。 中学時代はヤングリーグ・三重ゼッツで18期生として入団。 同級生には21世紀枠の候補にもなった近大高専でプレーする藤井彩翔をはじめとする仲間がいたが、ジャイアンツカップといった大きな舞台には出場とはいかなかった。 その中で阪本は過去4度の甲子園出場経験を持つ松阪商への進学を決める。 元々、松阪商は強打を武器に県内でも有名だったが、中学時代はバッティングには自信がなかったと阪本は振り返る。 「三重ゼッツの時は全然バッティングで活躍ができていなくて、3年生になって、『このままだとやばいな。 打てないと試合には出られない」』と思って、かなり練習をしました」 1年生からベンチに入り、試合で活躍する。 そのために阪本が取り組んだことはひたすらバットを振り続けることだった。 「毎日素振りはしましたし、バッティングセンターにも行って、とにかくスイングスピードを速くしようと、がむしゃらにバットを振っていました」 自分の課題を正面から向き合い、ひたすらバットを振り続けた阪本。 すると、入学直後から成果が表れ始める。 練習試合で起用され結果を残し続けると、冨山悦敬前監督の目に留まり、3年生たちの試合にも代打で出場。 少ないチャンスだが、阪本はそこでもきっちり結果を残し続け、1年生の夏からベンチに入ることが出来た。 現在、チームの指揮を執る北村祐斗監督は、「本人の頑張りもあるとは思いますが、最初から飛ばす力は持っていた」と阪本が持っていたポテンシャルの高さは光るものがあったが、練習の積み重ねでベンチに入ったと当時のことを語る。 しかし、高校野球のレベルに順応が出来た要因はどこにあった。 それは重心の乗せ方にあった。 「中学生の時まではボールを迎えに行く、前に突っ込む癖がありました。 ですので、変化球も合わせることが出来なかったんですが、右足の股関節に乗せる感じでタメを作れるようになると、きっちりボールを待てるようになりました」 当時の3年生に高校レベルの投手の傾向、癖などありとあらゆるアドバイスをもらえたことが基礎になっていると分析するが、なかでも阪本にとって大きな存在は2学年上の藤崎 智也(現名城大)だった。 当時、県内随一のスラッガーとして注目された藤崎は、阪本の目標像となった。 「いろんなアドバイスを聞いて自分なりに考えながらやっていましたが、藤崎さんは当時4番で、真っすぐも変化球も強い打者でした。 今の打撃は藤崎さんから教わったことが一番多く、実際にフォームも真似をしてみたら、しっくりきたので、そのまま真似させてもらっています」 松阪商はその夏、決勝戦まで勝ち進むものの白山の前に敗れ、悲願の甲子園とはならなかった。 ベンチに入っていた阪本だったが、新チームになると憧れの先輩・藤崎に代わり、4番に座る。 「4番を任されている以上、結果を残さないといけない」という強い責任感を背負った阪本。 しかし秋は県大会まで進むも2回戦で津田学園。 春は予選で相可の前に敗戦。 そして2度目の夏は初戦の宇治山田戦で4打数2安打2打点の結果を残すものの、5対7で敗戦。 阪本の2度目の夏はすぐに終わってしまった。 そして2年秋、阪本は覚醒の時を迎える。 今回はここまで!次回は新チーム以降の阪本選手の成長に迫っていきます。 さらに最後の夏への意気込みも聞かせていただきました。 85秒を誇る超高校級捕手。

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