明智光秀どんな人。 大河ドラマを10倍楽しむ! 明智光秀ってどんな人?

何者なの?明智光秀の性格

明智光秀どんな人

実は、明智光秀の歴史的資料は少なく、その人生については謎が多いそう。 とはいえ、大河ドラマでは、光秀の青年期から描かれるとの事ですから、豪華キャスト陣がどんなストーリーを演じるのか、みなさんもきっと楽しみにしていると思います。 そこで、知っていれば大河ドラマをさらに楽しめる(?)、明智光秀のあんな事やこんな事について、書籍をもとに、全3回にわけてご紹介! 1回目は、 青年時代から信長に出会うまでの光秀をご紹介します。 まむしの道三との出会い 美濃(現在の岐阜県)の支配者・斎藤道三(さいとう・どうさん)。 大河ドラマでは、本木雅弘さんが演じる戦国武将です。 光秀の最初のターニングポイントは、この、道三との出会いにありました。 1528年に、美濃国の明智長山城に生まれた明智光秀。 しかし、わずか2歳の時に、母親が実家に戻ってしまい、光秀の母親がわりとなったのは、叔母の小見の方(おみのかた)でした。 小見の方は、光秀を我が子のように育てましたが、やがて、美濃の蝮(まむし)とあだ名される武将・斎藤道三のもとへ嫁ぐことになります。 光秀が5歳の時でした。 幼くして実母につづき養母とも別れた光秀に、悲しい出来事は続きます。 11歳の時に、父の光綱までもが病で亡くなってしまうのです。 しかし、悲しみに負けず学問や武芸にはげみ、見事な青年武士となった光秀は、1543年に16歳で元服しました。 この年は、鹿児島県に火縄銃が伝わった年でもあります。 (歴史の授業で 「鉄砲伝来」って習いましたよね〜、なつかしい!) そして、この「鉄砲」を斎藤道三が手に入れたと聞いた光秀は、さっそく道三のいる稲葉山城を訪ねます。 道三に気に入られた光秀は、この地で鉄砲の腕をみがきました。 また、道三に勧められ、兵法書や茶道に親しむなど、武将としての知識と文化人としての教養を身につけたのです。 苦難を乗り越え、織田信長の家臣に 21歳となった光秀は、叔父の光安とともに京へ上り、13代将軍・ 足利義輝(あしかが・よしてる)と出会います。 ここで光秀は、義輝に仕える 細川藤孝(ほそかわ・ふじたか) の家臣となり、諸国を遍歴し見聞を広めました。 その後、明智の里に戻り、生涯たった一人の妻となる煕子(ひろこ)を娶ります。 しかし光秀29歳の時、斎藤道三が長良川の戦いで負け、道三に味方した叔父・光安も戦死。 光秀が生まれ育った明智長山城も焼失してしまいました。 身重の妻を連れ、いったんは母の実家である若狭に逃れた光秀でしたが、数年後、越前(福井県)へ向かいます。 貧しい暮らしの中で、近所の子供たちに学問を教えるなどして家族を養い、やがて大名・ 朝倉義景(あさくら・よしかげ)の家臣にとりたてられました。 その後、以前の主人である細川藤孝を通じて13代将軍・足利義輝の弟、後の15代将軍となる 足利義昭(あしかが・よしあき)に仕えます。 そしてこの義昭が、将軍となるための後ろ盾となった人物こそが、 織田信長(おだ・のぶなが)だったのです。

次の

明智光秀の子孫はどんな人?本能寺の変後の子供から現代の子孫まで紹介

明智光秀どんな人

(光秀は、若いころの資料がほとんど残っておらず、不明な点が多い。 父が道綱とするものがあったり、光隆とするものがあったり。 生まれた年も1528年・1526年(大永6年)・1516年(永正13年)などの説があります。 またそこで、と出会い、義昭にも仕えることになる。 その時の活躍が認められ、滋賀県(近江国の滋賀郡)に5万石の領地をもらい、琵琶湖の近くに坂本城を立てる。 この時、初めて当主となり、坂本城主、惟任日向守(これとうひゅうがのかみ)と称される。 このころから異例出世を遂げていく。 (本能寺の変) しかし、その謀反の知らせを聞き、わずか10日余りで中国地方から引き返してきた(中国大返し)秀吉に敗れてしまう。 (天王山にて、 山崎の戦い) そして、逃げる途中に落ち武者狩りの農民に襲われ死亡(享年55歳) 明智光秀は何した人? 本能寺の変を起こす 1582年光秀が主君である信長を裏切った事件。 当時、近畿地方を支配下に治めつつあった信長は、さらに、中国地方制圧しようとして、秀吉、光秀らを向かわせるが、秀吉は、信長がいる本能寺へ向かい信長を討ちます。 その時、「敵は本能寺にあり」と言ったとされています。 仏の嘘(うそ)をば方便といい、武士の嘘をば武略という。 是を以て之を見れば、土民百姓は可愛きことなり。 というものがあります。 「仏や武士の嘘がゆるされるなら、年貢をごまかすくらいの百姓の嘘なんてかわいいものだ」という意味で、家臣だけでなく、民に対しても思いやりが感じられます。 さらに、当時、福知山城下でよく起こっていた河川の氾濫を防止するために、大規模な治水工事を行っています。 このことで丹波の人々に感謝され、現在でも福知山では「福知山御霊大祭」、亀岡では「亀岡光秀まつり」や「ききょうの里」といったイベントが開催され、光秀が慕われていたことがわかります。 教養があり文武両道 浪人時代に身に着けた 鉄砲は「百発百中」といわれ、部隊戦術を身に着け、数々の武功をあげています。 建築技術にも優れ、強固な坂本城、亀山城を建てています。 また、和歌をたしなみ、本能寺直前 詠んだ句「時は今 雨が下しる五月哉」は有名です。 この歌は、これから謀反を起こすともとれる歌、とされていますが、それ以外にも様々な解釈ができるといわれており、光秀の 教養が奥深いと高く評価されています。 4行でわかる明智光秀のまとめ.

次の

明智光秀ってどんな人?年表や本能寺の変をわかりやすく解説

明智光秀どんな人

備中高松城の戦い 天正10年、 羽柴秀吉は 織田信長の指示により、毛利氏が治める備中高松城(現在の岡山県)に攻め込みます。 清水宗治や毛利輝元の率いる毛利軍は備中高松白に籠城する作戦を取りますが、羽柴秀吉による水攻めによって備中高松城を完全に包囲しました。 毛利軍を追い詰めた秀吉は、城主の 清水宗治の自刃による開城(城を明け渡すこと)を要求しました。 備中高松上を水攻めによって追い込んだ秀吉は開城を目前に控えていた 本能寺の変 時を同じくして、 明智光秀は、信長の命を受け、備中高松城の戦いの援軍へと向かい出陣しました。 しかしその道中、光秀は信長が上洛(旅行のようなもの)している 本能寺へと軍を方向転換させました。 明智光秀は自らが使える織田信長を倒そうと考えたのです。 この際の明智光秀による『 敵は本能寺にあり』というセリフは現在でも有名ですが、これは『明智軍記』に記載された俗説であり、実際とは異なっていたようです。 『敵は本能寺にあり』という発言は実際はなされていなかった 実際には、明智光秀は13000の大軍勢に対し、織田信長を討つことを伝えていなかったようで、家臣の中には『徳川家康を討ち取りに行くのだ』と勘違いしていた者もいたほどでした。 しかし、光秀は有無を言わさず本能寺へと切り込みます。 この時の本能寺の信長勢はわずか50人ほどであったのに対し、明智軍は13000の軍勢でした。 明智軍は信長のいる本能寺に到着すると、本能寺を包囲し火を放ちました。 初めは外の騒ぎを聞き家臣同士の喧嘩かと思った織田信長でしたが、家臣から明智光秀による謀反だということを伝え聞くと、一言 『是非に及ばず(仕方がない)』と口にしたと言われています。 この発言は、『頭が良く、能力の高い光秀の謀反であれば、逃げることは不可能であろう』という意味が込められていると考えられ、その後、槍で応戦した信長でしたが、すぐに御殿の奥の間で自刃したのでした。 本能寺の変にて織田信長、自刃 中国大返し 一方、備中高松城を包囲していた羽柴秀吉(豊臣秀吉)は本能寺の変の報告を受け、すぐに和議(停・終戦)を結び、清水宗治の自刃を見届けた後、京都の本能寺へと直行しました。 羽柴秀吉は備中高松城(現在の岡山県)から本能寺(現在の京都府)までのおよそ200キロの距離を、歩きで10日間という猛スピードで踏破しました。 秀吉軍は本能寺へと急行。 10日間で200キロを踏破し、明智軍と衝突 秀吉、光秀の両軍は、京都・ 山崎という地で衝突し、戦となります。 この戦が『 山崎の戦い』なのです。 山崎の戦いについて、詳しくはこちら! 戦は、約16000の軍勢の明智軍に対し、秀吉軍は約40000とされる大軍勢で猛攻し、短期間のうちに勝負が決しました。 山崎の戦いでは、秀吉軍の大軍勢に及ばず、明智光秀は敗死 明智光秀は短すぎる天下人となった 本能寺の変により、時の天下人である 織田信長を討った 明智光秀は天下人の名を手に入れる事となりました。 しかし、山崎の合戦により、敗死した光秀が『天下人』であった時間はあまりにも短く、その短さから『 三日天下』と呼ばれるほどでした。 これも羽柴秀吉(豊臣秀吉)の機敏な中国大返しによるものですが、実際に光秀が天下をとった期間は11日間であったようです。 明智光秀の天下は11日間であった それとは対照的に 明智光秀を討った 羽柴秀吉は一躍、 天下統一へと近づく事となったのです。 謎に包まれた本能寺の変の動機 明智光秀が何故、本能寺の変を首謀したのかということは実は明らかになっていません。 信長を倒すことによって、光秀が天下統一するということは現実的には難しかったこともあり、現在でも歴史ファンの間では、本能寺の変を首謀したのは、光秀ではなく他の誰かではないか、とする説が囁かれています。

次の