窪田正孝が主演するNHKの朝ドラ「エール」のモデルとあらすじとネタバレです。 ・・・声楽を目指す少女• ・・・関内音の父• ・・・関内音の母• ・・・関内音の姉• ・・・作曲家を目指す青年• ・・・古山裕一の父• ・・・古山裕一の母• ・・・古山裕一の弟• ・・・古山裕一の幼なじみ• ・・・古山裕一の幼なじみ• ・・・小学校の教師• ・・・京都の商人• ・・・ドイツ留学経験のある歌の先生• ・・・軍に納品する商売人• ・・・世界的なオペラ歌手• ・・・演奏会を提案する興行師• ・・・クラスメイト• ・・・川俣銀行の支店長• ・・・川俣銀行の行員• 松坂寛太(望月歩)・・・川俣銀行の行員• ・・・川俣銀行の事務員• ・・・ディレクター• ・・・早稲田大学応援部の団長• ・・・ギターが得意な作曲家• ・・・歌手• ・・・下駄屋の娘• ・・・音のライバル• ・・・裕一が尊敬する作曲家• ・・・人気の作詞家• ・・・カフェの店員• ・・・新人歌手• ・・・古山裕一の弟子• ・・・人気歌手• ・・・応援団員• ・・・田中隆の幼なじみ• ・・・歌手• ・・・演出家• ・・・古山裕一(窪田正孝)の就職先• ・・・レコード会社• しかし、古山裕一(窪田正孝)は音楽と出会ったことで、音楽の素晴らしさに惹かれ、独学で作曲を学び、家族に内緒で海外のコンクールに応募しすると、古山裕一(窪田正孝)の曲が上位入賞を果たした。 これを切っ掛けに、古山裕一(窪田正孝)は歌手を目指している女性と出会い、その女性と結婚し、2人で苦難を乗り越えて、数々のヒット曲を生み出していった。 やがて、戦争へと突入すると、古山裕一(窪田正孝)は軍の要請で戦時歌謡を作曲するが、自分が作った歌で若者が戦死していくことに心を痛め、戦後は歌の力で傷ついた国民を癒やそうと考え、新しい時代へと向けた歌を作曲するのだった。 古関裕而は実家の呉服やを継ぐために、旧制福島商業学校へと進学するが、実家の呉服屋が倒産してしまう。 卒業後は川俣銀行に就職する一方で、福島ハーモニカーソサエティーに入り、作詞・作曲などを手がけるとともに、作曲家・金須嘉之進に師事した。 やがて、古関裕而は「竹取物語」を作曲して海外のコンクールに送ると、「竹取物語」が入選。 この入選が切っ掛けで、内山金子と知り合い、内山金子と結婚した。 そして、古関裕而は、山田耕筰の推薦でコロムビアの作曲家となり、菅原明朗に師事しながら、数々の曲を世に送り出した。 戦時中は戦時歌謡を手がけたが、自らの作品で戦死していった人たちへの自責の念を持ったことから、戦後は暗い日本を明るくするために数々の曲を作り、1964年開催の東京オリンピックの「オリンピック・マーチ」も手がけた。 古関裕而は数々の功績が認められ、福島県福島市で初の名誉市民に認められ「福島市古関裕而記念館」も建設されたが、入院生活を送っていたため、「福島市古関裕而記念館」へ行くことは出来ず、平成元年(1989年)11月12日に脳梗塞で死去した。 80歳だった。
次の2020年3月30日(月)からNHKで放送が開始される新しい朝の 連続テレビ小説「エール」。 窪田正孝さん演じる主人公・古山裕一(こやま・ゆういち)は昭和を代表する作曲家である 古関裕而(こせき・ゆうじ)がモデルです。 そこで今回は、誰もが知る名曲を数多く作曲した古関裕而とはどんな人物なのかをご紹介したいと思います。 10歳で楽譜を読める音楽少年 作曲も開始した少年時代 1909(明治42)年、福島県福島市。 音楽好きな父親のもとに古関裕而(本名・古關勇治、読みは同じ)は生まれました。 父親が購入した蓄音機から音楽が流れる家庭で育った古関は、幼いころからほぼ独学で音楽を学びます。 幸いにして、小学校の担任が音楽好きで、指導に力を入れていたことから、10歳ごろになると楽譜を読めるようになり、作曲もするようになったのでした。 戦前の音楽家といえば、歌手の藤山一郎がそうであったように、東京音楽学校(後の東京藝術大学音楽学部)を卒業した者が多かった時代です。 しかし、古関は家業の呉服店を継ぐための勉強をせねばなりませんでした。 しかし、旧制福島商業学校(現在の福島商業高等学校)に入学後も、学業より作曲に夢中で、作曲法の本を買って没頭しました。 初めて自分のつくった曲が演奏されたのは校内の弁論大会のことで、その感慨はひとしおであったことでしょう。 音楽にますますのめりこんでいく中で、古関は福島ハーモニカ・ソサエティーに入団します。 商業学校卒業直前のことでした。 そして、当時、日本でも有力なハーモニカバンドであった福島ハーモニカ・ソサエティーにおいて、なんと古関は作曲・編曲・指揮をまかされたのです。 作曲や演奏だけではなく、多くの音楽を聴き、学ぶことも古関は忘れませんでした。 当時はそれほど出回っていなかったレコードをみんなで聴く会である「レコードコンサート」が地元で開かれるたびに足を運び、たくさんの作曲家から影響を受けます。 リムスキー=コルサコフ、ストラヴィンスキーなどに特にひかれたようです。 しかし、ありあまる才能と熱意を持っていても、古関は音楽に専念するという道を選ぶことはできませんでした。 商業学校に入学したのは実家の呉服店を継ぐためでしたが、実家の店は在学中に倒産してしまったのです。 独学でしか音楽を学んでいない地方の青年に音楽で食べる力はまだなく、音楽を学べる学校へ進学することもままならなりません。 古関は地元の銀行(川俣銀行、現在の東邦銀行)に入社し、働くこととなりました。 ファンレターをくれた女性と結婚!いざ東京へ しかし、転機はわりと早くやってきました。 音楽への思いを捨てきれない古関は、作曲家・山田耕筰の事務所へ楽譜を郵送してみることに。 これをきっかけに、山田との手紙のやり取りが始まりました。 さらに、福島ハーモニカ・ソサエティーが仙台中央放送局(現在のNHK仙台放送局)のラジオ番組に出演した際に知り合った、仙台在住でリムスキー=コルサコフの弟子・金須嘉之進に師事することに。 こうして古関は音楽の道に進路を定めることができたのです。 1929年(昭和4)年、小関は管弦楽のための舞踊組曲「竹取物語」をイギリスロンドン市のチェスター楽譜出版社が募集した作曲コンクールに応募し、入賞を果たしました。 これは日本人初の国際的作曲コンクールにおける入賞で、当時の新聞でも大々的に報道されます。 「竹取物語」は色彩的で斬新な曲だったという話が残っています。 そんな折、新聞で古関の入賞記事を読んだ愛知県豊橋市在住の 内山金子(「エール」では二階堂ふみ演じるヒロイン・関内音のモデル)という女性が、古関にファンレターを書いて送りました。 それは大変熱烈なものであったとか。 古関はその文面にほだされ、二人の文通が始まります。 やがて、いつしか古関のほうがより熱のこもった手紙を金子に送るようになっていきました。 そして1930(昭和5)年、二人はついにゴールインします。 古関20歳、金子18歳という若い夫婦でした。 古関は妻を晩年まで愛し続けたそうです。 金子へのあふれる情熱を楽譜にぶつけるかのように、この時期の古関は複数の交響曲やピアノ協奏曲、交響詩「ダイナミック・モーター」や弦楽四重奏曲など、膨大な作品群を完成させています。 しかし、残念なことに現在それらの楽譜はほとんど行方不明になっており、「竹取物語」の所在もわからず、曲を再現することはできません。 結婚した年の9月、レコード会社・コロムビアの顧問・山田耕筰が古関をコロムビア専属の作曲家に推薦。 これをきっかけに古関夫妻は福島から上京します。 声楽家志望だった金子は、上京後に帝国音楽学校へ入学しました。 東京で古関は作曲家・菅原明朗に師事。 菅原は「竹取物語」の楽譜を読んで感銘を受け、大絶賛。 ほかにも、作曲家でありヴァイオリニスト、指揮者としても幅広く活躍した橋本國彦とも親しくなりました。 一方で、山田耕筰の不倫問題を古関が嫌い、彼とは疎遠になっていったようです 音楽家としては順風満帆だった古関でしたが、実家の破産以降は家族を養わなくてはならない立場でもありました。 そのため、生活のための作曲も行わざるを得ませんでした。 クラシック一筋だった古関には苦しい選択だったかもしれません。 しかし、「船頭可愛や」(詩:高橋掬太郎、唄:音丸)が大ヒットし、一躍人気作曲家となったのです。 この歌は世界の舞台でも活躍したオペラ歌手・ 三浦環(「エール」では柴咲コウ演じる双浦環のモデル)も歌い、レコードを出しています。
次のNHK連続テレビ小説「エール」で柴咲コウが演じる、世界的オペラ歌手・双浦環(ふたうら・たまき)。 この記事では双浦環の人物設定、それにモデル人物・三浦環のプロフィールや古関裕而との関わりなどをまとめます。 音のあこがれの人・双浦環 双浦環がドラマに登場するのは、第2週の予定。 豊橋の少女・関内音は、たまたま教会で聞いた世界的オペラ歌手・双浦環の歌声に衝撃を受けると、環からの励ましもあり「歌が上手くなりたい」という大きな夢を抱くようになります。 後に音が歌手を目指して上京し東京帝国音楽学校に通うようになると、音はあこがれの女性・環と再会することになります。 環は東京帝国音楽学校の特別講師になり、音がプリマドンナを目指す記念講演の審査員を担当。 歌手の夢を追う音に対し、環は厳しくも本質的な指導を与えます。 また、音の夫・裕一が作曲、発表をしたもののくすぶっていた楽曲 「船頭可愛や」を環が歌い、大ヒット曲へと導く様子なども描かれそうです。 」は、(2週間無料トライアル有)で見放題配信中(2020年4月現在)。 世界的オペラ歌手・三浦環がモデル 双浦環は、実在したオペラ歌手・ 三浦環(みうら・たまき)がモデル人物となっています。 ただし、あくまで双浦環は三浦環をモチーフとした「エール」オリジナルのキャラクターであり、人生の時系列や個々のエピソードなど、フィクションの要素も多く入ります。 三浦環は、1884年(明治17年)東京・京橋生まれ。 3歳の頃から日本舞踊、6歳の頃から長唄と箏を習うなど、幼い頃から音楽の感性を磨いています。 やがて東京音楽学校(現在の東京藝術大学音楽学部)に入学すると、瀧廉太郎(ピアノ)、幸田延(声楽)らに師事。 在学中には日本人の手による初めてのオペラに出演し、成功を収めています。 音楽学校を卒業後は研究科へと進み山田耕筰らを教え、1907年(明治40年)には助教授になっています。 1914年(大正3年)、前年に結婚していた医師の夫・三浦政太郎とともにドイツに留学。 助教授の座を捨て、音楽に生きる決意を持っての渡欧でした。 「蝶々夫人」で大きな成功 2000回公演達成 欧州でオペラの才能を認められた環は、イギリス、アメリカ、イタリア、スペインなど欧米各地で次々に公演を成功させています。 特にジャコモ・プッチーニ(イタリア)作のオペラ 「蝶々夫人」の蝶々さん役は当たり役で、プッチーニ本人からも激賞されたほど。 環による「蝶々夫人」の公演は実に2000回(!)を数え、国際的に知られるオペラ歌手として成功を収めています。 1935年(昭和10年)、2000回公演達成を機に帰国すると、日本国内でも「蝶々夫人」などの舞台に出演。 終戦後も国内でリサイタルを開くなど、本場欧州で培った音楽文化を日本へと伝えています。 古関裕而と三浦環「船頭可愛や」 以上のように、世界的な成功を収めた三浦環。 「エール」主人公のモデルとなっている古関裕而・金子夫妻とも接点がありました。 古関裕而作曲 「船頭可愛や」(歌・音丸)がヒットしていた1935年(昭和10年)、「蝶々夫人」の成功をもって帰国した環は、古関裕而が専属契約していた日本コロムビアの専属声楽家となっていました。 こうした縁もあったのでしょう。 たまたま「船頭可愛や」を聞いて感激した環は、「ぜひ私も歌ってレコードに入れたい」と申し出ています。 三浦環バージョンの「船頭可愛や」は「青盤レコード」(外国の著名な音楽家のレコードに与えられるラベル)として発売され、その後、 「月のバルカローラ」という古関裕而の曲も三浦環により青盤レコードとして発表されています。 自身の曲が青盤レコードとして発売されるのは、大変な名誉だったそうです。 「エール」劇中でも「船頭可愛や」の双浦環バージョンが「青盤レコード」として出されることを巡り、青盤レーベルの中心人物である作曲家・小山田耕三(志村けん。 山田耕筰がモデル人物)が不満を表明するシーンがあるようです。 同じ曲でもバックグラウンドが違う二人が歌うと、まったく別の表現となります。 アルバムはほかに「福島夜曲」「福島行進曲」「紺碧の空」「大阪タイガースの歌」なども収録。 リンク先・ でアルバム全曲視聴(約30秒)ができます。 古関金子あこがれの人・三浦環 一方、歌手を志した妻・古関金子にとって、三浦環は幼い頃からの憧れの存在だったようです。 金子は帝国音楽学校で環の妹弟子(同じイタリア人声楽家に師事)でもあった声楽家・ベルトラメリ能子に師事しており、環の存在は身近に感じていたことでしょう。 また、古関夫妻と三浦環が同じ枡席で相撲観戦をしたエピソード(環が巨漢過ぎてスペースがなく、金子が裕而の膝の上に乗った)なども、古関裕而の自伝「鐘よ鳴り響け」に書かれています。 関連記事 ・ ・ ・ ・.
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