北条 義 時。 北条義時

得宗北条氏と名越北条氏~争いの始まりから決着まで

北条 義 時

4,194,394アクセス• 昭和2年 1927年 に法華堂跡と源頼朝墓が別個に国指定史跡になったが、その後、平成12年(2000年)に追加指定・統合され、名称変更されている。 さらに石段下の鳥居前の島津忠久墓参道と大江広元墓参道の間の広場が発掘調査された結果、北条義時法華堂と推測される堂跡が発見され、平成18年(2006年)に北条義時墓の法華堂跡部分等を追加し、名称変更された。 北条義時は2代執権で、北条政子の弟である。 また、宝治元年 1247年 に法華堂に籠った北条泰村ら三浦一族500人余りの自害の地としても知られる。 鳥居手前のやぐらには石塔が建ち北条泰村ら三浦一族の墓とされる。 背後の山麓にあるやぐらには薩摩藩主島津家の藩祖とされる島津忠久、執権政治の確立に尽力した大江広元とその子で毛利家の祖である毛利季光の三人の墓が並んでいる。 古墳時代の横穴墓だとされるが墓を造成する際に掘削されていてやぐらのように見える。 国指定文化財等データベースの詳細解説には「法華堂阯ハ西御門ニ在リテ頼朝墓ノ下西側ニアリ、始メ頼朝ノ持佛堂ニシテ其ノ薨去後其ノ廟所トナレリ 江戸時代ニハ八幡宮供僧坊ノ管理ニ属セシカ維新後廃セラル 今地域内ニ白旗神社ノ小祠ヲ祀ル 法華堂阯ノ背後ナル丘陵ノ中腹ニアリ長方形ニ石疊ヲ敷キ土鏝頭ノ上ニ高サ七尺ノ多重塔一基ヲ建テ石玉垣ヲ周ラセリ」(昭和2年の指定当時の指定説明が記載されていたが、今回の小生の指摘を受けて10月には平成18年の追加指定・名称変更時の説明が書き加えられている。 )とあり、白旗神社が建つ平地に頼朝の持佛堂が建っていたが薨去後に廟所として法華堂になったことが印されている。 その後、安永8年(1779年)に薩摩藩主の島津重豪(しまづ しげひで)が多層塔(供養塔)を建てた。 平成元年(1989年)にこの多層塔は破壊され、平成2年(1990年)に新たに造り替えられた。 神奈川県生涯学習情報システム:文化財情報詳細画面には、「1199年(正治元年)に死去した鎌倉幕府の創始者である源頼朝と、2代執権として幕府発展の礎を築き1224年(貞応元年)に死亡した北条義時(よしとき)の死後の冥福を祈る建物(法華堂)が建てられたとされる場所である。 このうち頼朝の法華堂跡は、現在では頼朝の墓と称される石塔が建ち、義時の法華堂跡は、平成17年に実施された発掘調査の結果、建物遺構が確認され、周辺の地下に遺構が良好に保存されていることが判明した。 いずれの跡も、山腹を造成して造られた平場の上にあって、家臣に当たる北条義時の法華堂は、主君たる源頼朝のものよりも低い場所にある。 」とある。 「主君よりも低い場所にある」とするのには説得力がある。 勿論、島津忠久、大江広元、毛利季光の三人の墓も源頼朝墓(法華堂)よりも低い場所にあるべきだ。 しかし、そうではないような気がする。 古墳時代の横穴墓を再利用するにしても主君の頼朝公の墓よりも高いところに家臣の墓があるのはおかしい。 おそらくは、江戸時代になって立派に見えるように二公(島津忠久と大江広元。 毛利季光の墓は大正10年(1921年)に移設した)の墓を建立し、そのために高いところに設定され、鎌倉時代を思わせるようにやぐらのように横穴を掘ったのであろう。 等間隔に横穴が穿って見えるのはそのためだろう。 法華堂は中腹の頼朝墓横にあったが宝治合戦以後に下の白旗神社のある平地に移されたとされるとの記述も見られた。 頼朝墓左側平地が持仏堂(後の法華堂)跡とする方が合理的のようだ。 また、国指定文化財等データベースの写真一覧には、白旗神社前参道が「法華堂跡」、頼朝墓左側空き地が「法華堂跡」、頼朝墓が「法華堂跡(源頼朝墓)」、頼朝墓が「法華堂跡(源頼朝墓)」、大江広元墓参道上り口が「法華堂跡(北条義時墓)」、大江広元墓参道右鳥居前広場が「法華堂跡(北条義時墓)」として4枚の写真が添付されている。 しかし、島津忠久墓、大江広元墓、毛利季光墓の写真はない。 これらの3公墓も史跡に含まれるとする記載が見られたが、北条義時の名があって大江広元の名がないのであるから、これらの3公墓は国指定史跡には含まれないのであろう(しかし、Eメールで市の文化財課に問い合わせていたところ1週間して「含まれる」との回答があった。 文化庁文化財部記念物課史跡部門の担当者からもその旨を追加したとメールがあった)。 これらの3公墓を訪れる人も少なく、あたりに看板などもない。 国指定文化財等データベースの写真一覧に近そうなものを掲載しておく。 (奉祀写真は源頼朝の墓階段下) 〔追加〕 三公(島津忠久、大江広元、毛利季光)墓も史跡「法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)」に含まれている(。 Eメールで市の文化財課に問い合わせていたところ1週間して「含まれる」との回答があった)。 国指定文化財等データベースの詳細解説には10月になって、「義時法華堂跡裏の斜面部には、近世に島津家と毛利家の墓所が営まれた。 安永八年(一七七九)に鹿児島藩主島津重豪が島津氏初代忠久墓を造営し、頼朝墓を整備した。 文政六年(一八二三)には萩藩主毛利斉煕が毛利氏初代季光墓と季光父の大江広元墓を造営した。 墓所はいずれも古墳時代の横穴墓を転用したものである。 東側は島津忠久墓、中央が大江広元墓、西側が毛利季光墓で、島津家、毛利家は参道、石段、灯籠等も併せて整備している。 」と追記されている。 なお、島津家が整備した墓から真っ直ぐに伸びる参道と石段は2005年に鎌倉市に寄付されて以来、打ち捨てられており、草茫々に生い茂り、通れなくなってしまっている。 墓所はいつも清掃するグループがあり、常に綺麗になっている。

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北条義時とは 鎌倉幕府の第2代執権の生涯

北条 義 時

2022年の大河ドラマは、小栗旬さん主演で、「鎌倉殿の13人」だとか。 源氏将軍3代が滅びるあたりまでの権力闘争を描くみたいですね。 そして小栗旬さんは、北条義時役だとか。 そして、小栗旬さん演じる北条義時には、何人か妻がいました。 彼女たちについて調べてみました。 離縁しないといったのに……正室:姫の前 北条義時の最初の正室は、比企朝宗の娘である「姫の前」です。 源頼朝の侍女であった女性で、吾妻鏡にも「容顔太だ美麗なり」と書かれるほどの美女で、頼朝も大層気に入っていたそうです。 (頼朝は割と北条政子の目を盗んで浮気しているイメージがありますが、姫の前はその辺は大丈夫だったんでしょうか。 ) 義時はそんな美女の彼女に一目ぼれし、何度も文を送りましたが、一向に返事はなく。 最終的に頼朝が、「絶対に離縁いたしません」という起請文を義時に書かせて、二人の仲を仲立ちしました。 二人の間には、次男の朝時、三男の重時、長女の竹殿が生まれます。 しかし…… 姫の前の叔父・比企能員や、能員の娘で鎌倉幕府二代将軍の頼家の妻・若狭局らが、北条時政らによって、1203年に攻め滅ぼされてしまいます。 姫の前の父、朝宗がどうなったのかはわかりませんが、これ以後朝宗の記録はありませんから、何らかのことが起こったのは確かでしょう。 そして、姫の前の運命も変わりました。 姫の前に関する記録に、このようなものがあります。 「源具親の子(源輔通)は北条朝時の同母弟」 源輔通は、1204年生まれです。 おそらく、姫の前は比企一族が誅殺された後、義時と別れて京に上り、公家の源具親と再婚したのだと思われます。 二度目の結婚生活がどんなものだったのかは分かりませんが、1207年、二度目の結婚生活から3年ほどで、姫の前は亡くなったようです。 お騒がせな継室:伊賀の方 伊賀守で、有力御家人である伊賀朝光の娘です。 いつごろ継室になったのかは分かりませんが、1205年に北条政村を産んでいるので、姫の前との離別(1203年)からさほどたたないうちに再婚したものと思われます。 こどもは3男1女。 彼女所生の中での長男(実際は5男)政村は7代目の執権となるなど、北条一族の宿老として重きをなしました。 また義時は政村を非常にかわいがっていたようですので、その母で継室である伊賀の方もおそらく愛されていたのではないでしょうか。 しかし義時の死後、彼女は娘婿を将軍に、継子である泰時ではなく実子政村を執権にしようとした……として失脚、伊豆へ流罪となります。 そのわずか4カ月後には危篤状態に陥り、そのまま亡くなったようです。 ちなみに彼女には義時毒殺疑惑もありますが……実際はどうだったのでしょうね。 謎多き北条泰時の母 側室:阿波局 承久の乱後に備前国守護に任ぜられた加地信実(1176~1243)の娘では?とする説がありますが、北条泰時は1183年生まれなので、どう考えても違いますね。 もしくは、北條寺の北条義時夫妻の墓には、義時妻として「佐伯氏」なる女性がいるので、この方がもしかしたら泰時の母かもしれません。 そもそも「阿波局」という名前も本当にそうだったのかよくわからない感じです。 泰時母は、「官女阿波局」と系譜にあるので、おそらく鎌倉幕府に仕える女房だったのでは?と言われていますが。 北条泰時が側室の所生であるということは、正室の子である異母弟・朝時との対立を生みました。 どちらが父の後継にふさわしいか、ということですね。 ただ泰時はそれを勝ち抜き、自らの子孫を北条家の嫡流、「北条得宗家」として確立させました。 側室:伊佐朝政の娘 四男・北条有時の母親に当たる女性です。 この女性の所生は有時一人しか確認できていません。 (生母不明の義時の子たちの母親である可能性はありますが。 ) 1200年(正治二年)に北条有時を産んだことがわかるだけです。 そこでは「江間殿妾」とあることから、側室であったことは確かです。 (この時期は姫の前が正室でした。 ) 北条義時の妻で、存在が明らかになっているのは上記4名ですが、他にも名前の知られていない側室がいてもおかしくなさそうです。

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北条義時とは (ホウジョウヨシトキとは) [単語記事]

北条 義 時

没年:1. 24 1240. 18 生年:安元1 1175 鎌倉中期の武士。 北条時政の子。 当初は五郎時連と称したが,建仁2 1202 年に時房と改名。 遠江守,駿河守を歴任し,承元1 1207 年には武蔵守になり,建保1 1213 年に相模守に転じた。 承久1 1219 年の源実朝暗殺後には,幕府の使者として京都へ上り,皇子を将軍として鎌倉へ遣わすよう後鳥羽に要請した。 同3年の承久の乱に際しては,甥の泰時と共に大将として京都へ攻め上った。 泰時と時房はそのまま京都にとどまり,初代の六波羅探題北方と南方になった。 1 1225 年,執権となっていた泰時は,執権補佐に当たる連署の職を新設し,時房を迎えた。 以後,死去するまで連署の地位にあり,泰時の良き相談相手となった。 上横手雅敬『北条泰時』 高橋慎一朗 出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版 朝日日本歴史人物事典について の解説 鎌倉前期の武将。 時政 ときまさ の子、義時 よしとき の弟。 相模守 さがみのかみ 、修理権大夫 しゅりごんのだいぶ 歴任。 将軍源実朝 さねとも 没後の将軍後継問題に関して、兄執権義時の命で上京し、折衝にあたった。 1221年(承久3)後鳥羽 ごとば 上皇の討幕計画をつぶすため、甥 おい の泰時 やすとき (義時の子)とともに上京、勝利ののち六波羅 ろくはら にとどまり、朝廷の監視、乱後の処理にあたった。 義時急死(1224)後鎌倉に帰り、連署 れんしょ となって執権泰時のよき協力者として幕政を指導した。 延応 えんおう 2年正月24日死去。 [田辺久子] 出典 小学館 日本大百科全書 ニッポニカ 日本大百科全書 ニッポニカ について の解説.

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