第 一 次 世界 戦争 きっかけ。 第一次世界大戦と第二次世界大戦がおきた理由

テストによく出る!第一次世界大戦まとめ

第 一 次 世界 戦争 きっかけ

さっそく探し出さなくては。 もし、発見できれば、アインシュタインと並ぶ名声が得られるかも。 しかも、これさえあれば、未来はすべてお見通し ・・・ でも、現実の歴史は、偶然か必然かはっきりしない。 結局、偶然か必然かは、確率で表すしかないのだろう。 たとえば、コインを投げて、表が出るか裏が出るかは偶然である。 しかし、100回コインを投げて、表が85回を超えるなら、何か仕掛けがあるのだ。 つまり、必然が潜んでいる。 では、第二次世界大戦は偶然か必然か? まず、戦争を起こすにはエネルギーと引き金が必要だ。 第二次世界大戦前夜、エネルギーは満タンで、はちきれんばかりだった。 あとは引き金を引くだけ。 実際、から20年以内に戦争が起こる可能性は極めて高かった。 計算するまでもなく、発生確率はほぼ100%。 これを必然と言わずして、何が必然なのか。 実際、1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻し、それを機に、イギリスとフランスがドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が始まった。 ところが ・・・ 第二次世界大戦は必然だが、このタイミングで世界戦争が始まる確率は低かった。 というのも、ヒトラーはポーランドに侵攻するつもりはなかったのである。 さらに、仮にドイツ軍がポーランドに侵攻しても、イギリスがドイツに宣戦布告するのは常識的にはありえない。 つまり、この時期、世界戦争には二重のロックがかかっていたのである。 では、なぜ、1939年9月1日に第二次世界大戦が起こったのか? まず、が山のようにあった。 つまり、戦争のエネルギーが臨界点寸前だったのである。 中でも、最強の潜在要因が「ドイツの恨み」だった。 1918年11月、第一次世界大戦が終わり、翌年、ヴェルサイユ条約が締結された。 連合国とドイツの講和条約である。 ところが、実態は敗者(ドイツ)に対する勝者(連合国)の復讐だった。 戦争の全責任をドイツに押しつけ、凄まじい罰をドイツに課したのである。 具体的には ・・・ ドイツの鉄鉱石の90%を産出するアルザス・ロレーヌ地方がフランスに割譲され、石炭と工業生産の中心地ザール地方が国際連盟の管理下におかれた。 つまり、鉱工業の心臓を握りつぶされたのである。 さらに、ベルギー、ポーランド、デンマークにも領土を取られ、ドイツは本土の13%を失った。 さらに、海外の植民地もすべて奪われた。 あげく、返せる見込みのない途方もない額の賠償金まで課せられたのである。 結果 ・・・ ドイツは凄まじいモノ不足に陥った。 そこで、ドイツ政府は、購買力を高めようと紙幣を大量に刷ったが、これが裏目にでた。 結果、史上最悪のハイパーインフレに陥った。 店でコーヒーを注文すると、飲み終わるまでに値段が2倍になるとか、給料が出たらすぐに店に行って、モノに変えないと紙くずになるとか、ネタとしか思えない事態が頻発した。 さらに、年金が紙くずになり、絶望した老人の自殺が後を絶たなかった。 食糧難も深刻で、闇市に人肉缶詰が売られているというウワサもあった。 弱り目に祟り目、踏んだり蹴ったりだった。 ドイツ国民は、この惨状の原因がヴェルサイユ条約にあると信じて疑わなかった(真実なのだが)。 そして、連合国を心から恨んだのである。 さらに、民主主義と平和主義の象徴といわれたワイマール共和国政府(当時のドイツ政府)でさえ、国防軍に対し、 「もはや、連合国と一戦交えるしかない。 勝算はあるか?」 と問いただす有様だった。 もちろん、国防軍の回答は「勝ち目なし」だった。 ところが、一方で、ドイツ陸軍総司令官ハンス・フォン・ゼークトは、1923年1月31日、共和国政府に対し、 「フランス占領にはドイツ再軍備で対抗を!」 と進言している(この頃、ドイツの軍事力は警察なみに制限されていた)。 第一次世界大戦が終わって、わずか4年後のことである。 ドイツがいかに追い込まれていたかがわかる。 一方で、戦争を抑制する力も存在した。 当時、ヨーロッパ諸国は、第一次世界大戦の戦傷から回復していなかった。 戦争で、2000万人もの犠牲者をだし、膨大な資源を消耗したのである。 そのため、強い厭戦気運がヨーロッパ全土をおおっていた。 つまり、この時代、「ドイツの恨み」と「ヨーロッパの厭戦気運」が天秤の左右でバランスをとっていたのである。 それほど、この時代は混乱していた。 「ありえない」、「想定外」が連発し、歴史の流れが寸断され、そこへ、「ドイツの恨み」というマグマが吹き上げた。 結果、誰も望んでいない第二次世界大戦に突入したのである。 ヒトラーは名うての侵略者だから、隣国のポーランドに侵攻するのは必然、さらに、フランス、ロシアにも侵攻したが、ヒトラーの目標は世界征服にあるのだから、これも必然。 最後にドイツは降伏したが、最強国アメリカにかなうわけがないから、これも必然。 つまり、全部、必然? 実際、欧米の歴史家の多くは、第二次世界大戦の始まりも結末も必然だとしている。 もちろん、強気でならしたイギリスのチャーチルは、自らの回顧録で、開戦から勝利まですべて必然、と自画自賛。 しかし、本当にそうだろうか? 現実は複雑である。 原因と結果がシームレスに、大河が流れるように連続しているわけではない。 流れが急変したり、どんでん返しがあったり、「ありえない」不連続点が無数存在するのである。 この現実世界も、無数あるシナリオの中で、最も発生確率が低いように思える。 そのぶん、歴史の因果関係がぼやけ、原因と結果がうまくつながらない。 だから、歴史の原因を見誤るのである。 たとえば ・・・ 現在、「第二次世界大戦の引き金を引いたのはヒトラー」は常識になっている。 実際、ヨーロッパとロシアに侵攻しているし、動機はたぐいまれな「征服欲」というわけだ。 しかし ・・・ ヒトラーは世界征服はおろか、ヨーロッパ征服さえ望んでいなかった(少なくとも開戦前は)。 それを証明する事実がある。 ドイツ軍がポーランドに侵攻した2日後の9月3日午前9時のことである。 イギリス政府はドイツに最後通牒を通達した。 「午前11時までに、ドイツ軍がポーランドから撤退しない場合は、イギリスはドイツと戦争状態に入る」 イギリスのドイツに対する事実上の宣戦布告である。 この最後通牒を受け取ったドイツ外務省の通訳官シュミットは、総統官邸に飛んで行き、ヒトラーと外務大臣のリッベントロプに報告した。 そのときの様子がシュミットの日記に記されている ・・・ ヒトラーは執務室の机にすわり、リッベントロプは右脇の窓際に立っていた。 シュミットが最後通牒を翻訳すると、ヒトラーは化石のように身じろぎもせず前方を凝視していた。 机に座ったまま不動の姿勢をとりつづけた。 やがて、ヒトラーは硬直して、窓際に立っているリッベントロプを振り返り、 「これはどういうことなんだ?」 と憤怒の光の目をして尋ねた。 つまり、ヒトラーは、イギリスとの戦争は想定外だったのである。 実際、この時期、ヒトラーの望みで確実なのは ・・・ 1.オーストリア・チェコスロヴァキアの併合 2.ポーランド領のポーランド回廊とダンツィヒの返還 3.ロシア(ソ連)の征服 ぐらい。 「1.オーストリア・チェコスロヴァキア」は、ドイツ人が多数住んでいたから、「2.ポーランド回廊とダンツィヒ」は元々ドイツ領だったからである。 つまり、この2つに関しては、ヒトラーに「侵略」の意識はなかった。 明確に侵略と意識していたのは「ロシア征服」である(かなり正当化されていたが)。 ではなぜ、ヒトラーは「ロシア征服」に執着したのか? 定説によれば、ヒトラーの偏屈な思想のせい。 具体的には ・・・ 1.スラヴ人(ロシアの主要民族)は劣等民族である(ユダヤ人ほどではないが)。 2.ボリシェヴィキ(レーニン式共産主義)は文明の破壊者である。 3.そんな劣った民族・国家が、豊かな資源を有するロシアを独り占めにするのは許せない。 上等なゲルマン民族に明け渡すべきである。 いかにもありそうな話で、眉唾のような気もするが、ヒトラーの著書「わが闘争」そのままなので間違いない。 ただし、もっとまともな?理由もあった。 ヒトラーの政策の基本は、1937年11月の「ホスバッハ覚書」に記されている。 その一部を要約すると ・・・ 人口が増大するドイツは、資源が不足し、とくに、食糧不足は深刻である。 自給自足は望むべくもないが、外国から買うこともできない(ヴェルサイユ条約で課せられた賠償金で外貨が不足)。 しかも、世界大恐慌で、「持てる国」はブロック経済を採っているので、貿易で外貨を稼ぐこともできない。 ゆえに、生存圏の拡大が必要である。 東ヨーロッパ(ロシアを含む)の人口希薄な地域に、農耕地を獲得するのである。 それも、遅くとも、1945年までに。 それ以後になると、過剰人口で食糧危機が切迫するからである。 その結果、生まれたのがヒトラーの究極の戦略「東方生存圏の拡大」だった。 つまり、ヒトラーの「ロシア征服」は、アレクサンドロス大王の東方大遠征のような無邪気な冒険心や、チンギスハーンの のような燃えるような復讐心に起因するのではない。 「国民を飢えさせない」ためだった。 皮肉なことに、その結果、ドイツは地獄世界に落とされたのだが。 たとえば、中立国のノルウェーを戦場にしたのは、ヒトラーではなく、チャーチルの方だった。 当初、ヒトラーはノルウェーの中立を尊重し、侵攻するつもりはなかった。 ところが、1939年9月19日、チャーチルは内閣に、ノルウェー領海内に機雷の敷設を許可するよう迫ったのである。 ノルウェーの船舶がドイツにスウェーデン産の鉄鉱石を輸送するのを阻止するために。 もちろん、イギリスの閣僚の多くは反対した。 イギリスは紳士の国である。 小国とはいえ、ノルウェーの中立を侵すことを嫌悪したのである。 ところが、チャーチルはおかまいなしだった。 これに危機感を覚えたヒトラーは、先手を打って、ノルウェーに侵攻したのである。 鉄鉱石を止められてはたまらないから。 ところが ・・・ 第二次世界大戦後のニュルンベルク裁判で、「ノルウェー侵攻」がドイツの罪状に加えられている。 先攻したのはドイツではなくイギリスなのに、とんだ濡れ衣である。 高名な軍事史研究者リーデル・ハートも、こう言っている。 それにしても、どうして、こんなメチャクチャがまかり通るのだろう? じつは、ドイツを裁いたニュルンベルク裁判も、日本を裁いた極東軍事裁判も、戦争犯罪を裁いたわけではない。 結果をみれば明々白々だが、勝者が敗者を裁いただけ。 敗者が悪 ・・・ 正義の仮面をかぶった「勝者の復讐裁判」だったのである。 そもそも、ヒトラーにノルウェーを攻める余裕はなかった。 最終目標の「ロシア侵攻」に備え、兵力を温存する必要があったのだ。 実際、オーストリア・チェコスロヴァキアはお得意の脅迫外交でもぎとっているし、ポーランド回廊・ダンツィヒも外交で片をつけるつもりだったのである。 もちろん、ヒトラーには正当な?理由もあった。 ポーランド回廊は、ドイツと東プロイセンを分断し、国土を飛び地にしていた(ドイツにとって不便)。 さらに、ダンツィヒは重要な貿易港で、ドイツ人が多く住んでいた。 それに、ポーランド回廊もダンツィヒも、元々ドイツ領だったのである。 敵対するイギリスでさえ、この件ではドイツに同情的だった。 ポーランド回廊とダンツィヒはドイツに返還してもらう。 その代わり、ドイツはポーランドに侵攻しない(ポーランド回廊については、ドイツと東プロイセンを結ぶ治外法権的な鉄道・道路の建設を要求)。 もちろん、ヒトラーは激怒した。 その場合、ポーランドに勝ち目がないことは計算できただろう。 じつは、「ポーランドの強気」の原因はイギリスにあった。 イギリス? 1939年3月29日、世界が仰天する事件が起こった。 ドイツに融和的だったイギリス首相チェンバレンが心変わりし、今後、ドイツには一切妥協しないと言い放ち、「ポーランドに対し安全保障」を約束したのである。 イギリスがポーランドに安全保障? もし、ドイツがポーランドを攻撃すれば、イギリスはドイツを攻撃する ・・・ 今日本で話題のである。 しぶしぶ? フランスは戦争に巻き込まれたくなかったのである。 第一次世界大戦で、フランスは凄惨な塹壕戦を経験した。 塹壕とは、敵の銃弾から身を隠すための不衛生な通路で、そこで、多くの兵士が病死した(戦闘ではなく)。 その悲惨な戦闘はレマルクの小説「西部戦線異状なし」で忠実に描かれている。 フランス人はこの小説を何度も読み返し、戦争は二度と御免だと思ったのである。 とはいえ、フランスは、イギリスの助けなしではドイツに対抗できない。 イギリスにへそを曲げられたら大変だ。 イギリスとフランスが助けてくれるなら、ドイツ軍など恐れるに足らず。 さらに、ポーランドを強気にさせた理由がもう一つあった ・・・ 自国の軍隊に的はずれな自信。 というのも、20年前、ポーランドは大国ロシア軍に勝利していたのである。 ところが ・・・ ポーランド軍は時代遅れだった。 軍の首脳部は、第一次世界大戦ですでに無用の長物と判明した騎兵に頼り、悲壮な騎兵突撃を夢想していた。 さらに、ポーランド騎兵が華々しくベルリンに入城することまで夢見ていたのである。 一方、ドイツ軍の主力は、戦車と航空機だった。 こうして、ポーランドは勇敢にも、ヒトラーの要求を拒否したのである。 しかし ・・・ イギリスのポーランドに対する安全保障は「常識外れ」、「ありえない」だった。 イギリスの国益に反するどころか、国を滅ぼす可能性さえあったのだ。 事実、この時、イギリス元首相で下院議員のロイド・ジョージはこう警告している ・・・ 「ソ連の援助を確認せずに、かかる重大な責任を引き受けるのは、自殺に等しい愚行である」 具体的に説明しよう。 当時の陸軍力は、空軍支援力も考慮すると、 ドイツ軍 > フランス軍+イギリス大陸派遣軍(フランスに駐屯するイギリス軍) でも、フランス陸軍はヨーロッパ最強だったのでは? たしかに ・・・ 実際、イギリス軍の参謀とチャーチルは、フランス陸軍はヨーロッパ最強と信じていた(数の上では正しい)。 ところが、彼らが見落としていた点がある。 第一に、この時点でドイツがチェコスロバキアを併合していたこと。 チェコスロバキア軍は最新の装備を備え、しかも、精強だった(特に第35師団)。 さらに、チェコスロバキアは、ヨーロッパ有数の軍備と軍事工場を有していた。 ドイツはそのすべてを接収していたのである。 実際、この接収で、ドイツ軍の大砲は2倍に増強されていた。 第二に、ドイツ軍が実用化した画期的な「電撃戦」。 これは、バターを針で突く戦法だった。 戦車、自走砲、装甲車輌など高速移動が可能で、強大な打撃力をもつ装甲師団を、敵陣奥深く突進させ(縦深突撃)、敵の背後から回り込み、包囲殲滅する。 ポイントは、足の遅い歩兵部隊を同伴しないこと、さらに、空軍との連携攻撃にあった。 さらに、電撃戦を主導した名将ハインツ・グデーリアンの存在も大きい。 彼は好機をとらえて、すかさずこれに乗じる天賦の才があった。 たとえ、電撃戦が実用化されていても、グデーリアンがいなければ、フランス戦はあれほど成功しなかっただろう。 ここに恐るべき事実がある。 フランス戦で、ドイツ軍は135師団を投入したが、連合軍(フランス軍+イギリス大陸派遣軍)を壊滅させたのは、装甲師団10個、空挺師団1個、空輸可能な歩兵師団1個の「12個師団」だった。 つまり、全軍の90%を占める歩兵師団が参戦する前に、勝利は決していたのである。 電撃戦恐るべし。 だから、連合軍が兵数と戦車の数で上回っていても、大勢に影響はなかったのである。 というわけで ・・・ 連合軍がドイツ軍に挑んでも勝ち目は薄かった。 仮に、何かの要因で勝利したにしても、何年もかかっただろう。 その間、ポーランドが持ちこたえるはずがない。 つまり、征服される。 そうなれば、イギリスとフランスの面目は丸つぶれだ。 さらに、連合軍が敗北したら? フランスはドイツ軍に占領され、イギリス軍は大陸から追い落とされる。 そうなれば、ポーランドの安全保障どころではない。 自国が滅亡にさらされるのだ(これが現実となった)。 だからこそ、ロイド・ジョージの言う「ソ連の援助」は「ポーランドに対する安全保障」の必須条件だったのである。 逆に、「ソ連の援助」があれば、西方の連合軍と、東方の「ポーランド軍+ソ連軍」でドイツを挟み撃ちにできる。 第一次世界大戦の相似である。 これなら勝算はあっただろう。 1939年8月23日、ソ連がドイツと不可侵条約を結んだのである。 そもそも、ドイツとソ連は犬猿の仲だった。 それに、この時、イギリス・フランスはソ連と相互援助条約の交渉中だったのである。 これには、世界中が仰天した。 さらに仰天したのは日本だった。 当時、日本はドイツと日独防共協定を結んでいたが、これを軍事同盟にステップアップする交渉の最中だった。 最大の仮想敵国ソ連に対抗するためである。 ところが、そのソ連とドイツが手を組んだ?そんなドイツと日本が同盟すればどうなるのだ? 大混乱の中、8月25日、平沼内閣は総辞職した。 平沼騏一郎首相の最後の言葉は、 「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じ ・・・」 ところが、ポーランドはそれどころではなかった。 西方からドイツ軍、東方からソ連軍に攻め込まれ、国が丸ごと消滅したのである。 ドイツがポーランドに侵攻するのは想定内として、なぜ、ソ連まで? じつは、独ソ不可侵条約には秘密条項が付帯されていた ・・・ ドイツとソ連でポーランドを分割する、早い話が、山分け。 メチャクチャな話だが、これが現実の外交なのである。 この手の「外交」は、ドイツやソ連だけでなく、アメリカも含め世界中で行われている。 「戦争ではなく外交で平和的に解決しましょう」がいかに馬鹿げた妄想かがわかる。 「戦争は外交の一部」なのである。 1939年9月1日、ドイツ軍はポーランドに侵攻した。 その2日後の9月3日、イギリス政府はドイツに宣戦布告した。 その6時間後、フランス政府もためらいながらイギリスに従った。 こうして、第二次世界大戦が始まったのである。 ポーランドは、自慢の騎兵の奮戦もむなしく、たちまち粉砕された。 ドイツ軍とロシア軍に挟み撃ちにされたのだから、ひとたまりもない。 それでも、ポーランド軍は勇敢に戦った。 ヨーロッパで最も勇猛で攻撃的と言われた民族の名に恥じないように。 ところが、連合軍の主力「フランス軍+イギリス大陸派遣軍」とドイツ軍の戦いは一向に始まらない(ドイツ・フランス国境で小競り合いはあったが)。 そのため、「まやかしの戦争(Phoney War)」とよばれた。 しかし、それこそが「まやかし」だったのである。 イギリスはチャーチルを中心に、ドイツを先制攻撃する夢のような作戦を立てていた。 一方、ヒトラーは、独ソ不可侵条約により、東方の憂いがなくなり、全軍をあげて、西方に侵攻しようとしていた。 もはや、ヒトラーを妨げるのは天候だけだった。 ヨーロッパの冬は天候が不安定で、航空機の活動が制限されるのである。 そして ・・・ 1940年5月10日、晴れ渡った青空の下、ドイツ軍はオランダ・ベルギー・フランスに侵攻した。 わずか2週間で、連合国軍は壊滅、6月14日、ドイツ軍はパリに入城した。 一方、イギリス大陸派遣軍はダンケルクに追い詰められ、命からがらイギリス本土に逃げ帰った。 つまり ・・・ 第二次世界大戦の引き金を引いたのは、ヒトラーではなく、イギリス首相チェンバレンだったのである。 彼の不用意な「ポーランドに対する安全保障」が、ドイツとポーランドの領土問題を戦争に発展させ、自らも参戦せざるをえなくなった。 そして、単独ではドイツに勝てないとわかると、今度はアメリカを戦争に引きずり込もうと画策した。 その結果、極東の日本まで巻き込む世界大戦争に発展したのである。 ここで、ロイド・ジョージの警告を思い出そう ・・・ 「ソ連の援助を確認せずに、かかる重大な責任を引き受けるのは、自殺に等しい愚行である」 たとえ、ロイド・ジョージがナチスドイツびいきでヒトラーびいきという人の道に外れたところがあっても、イギリスは彼の警告に耳を傾けるべきだったのである。 運良く、アメリカが第二次世界大戦に参戦したから良かったものの、それがなければ、イギリスは最終的に敗北していたのだから。 運良く、アメリカが第二次世界大戦に参戦? もし、アメリカの大統領がルーズベルトでなかったら、アメリカは参戦していない。 というか、参戦できなかったのである。 その場合、太平洋戦争が起こる確率も半減する。 つまり ・・・ の半分は第二次世界大戦にあったのである。 ドィッチュ 編集 、, デニス・E. ショウォルター 編集 , Harold C. Deutsch 原著 , Dennis E. Their Rise and Fall, with their own Account of Military Events 1939-1945」 by R.B•

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サラエボ事件から第1次世界大戦

第 一 次 世界 戦争 きっかけ

ヨーロッパの参戦国 同盟国(赤紫)、連合国(薄緑)、中立国(黄)。 1914年から起きた 第一次世界大戦では、ドイツ・オーストリア・トルコなどの陣営と、イギリス・フランス・ロシアなどによる陣営とが戦争をしていました。 ドイツ・オーストリア・イタリアの三国は 三国同盟(さんごくどうめい、Triple Alliance )を結び、同盟国(どうめいこく)と言われます。 対してロシア・フランス・イギリスは 三国協商(さんごくきょうしょう、Triple Entente)を結び、連合国(れんごうこく)と言われています。 つまり同盟国と連合国が、あらそった。 三国同盟と三国協商が、あらそった。 戦争は長期化した。 また、 毒ガス(どくガス)が新兵器として登場し、被害が大きかった。 潜水艦(せんすいかん)も、新兵器として、つかわれた。 なお、 戦車(せんしゃ)や 飛行機、飛行船も新兵器として使われたが、この時代の戦車や飛行機は、まだ性能がひくかった。 この第一次世界大戦からヨーロッパでは戦争のしかたが大きく変わり、それまでの男の兵士だけが戦争に従事する方式から、民間人や女子も工場動員などで戦争に協力させて、国力を出し切って戦う 総力戦になった。 (ただしヨーロッパ以外の日本やアメリカでは国土が戦場にならなかったこともあり、日本やアメリカでの総力戦への変換は、のちの第二次世界大戦のころになる。 第一次世界大戦じたい、長期化して、当初は「クリスマスまでには帰れるさ」などとヨーロッパ諸国の兵士たちの間で言われてたと伝えられるが、実際の第一次大戦は何年も続いた。 日本では、国土が大した被害にあわなかったことから、日本の民衆や評論家などの多くは、戦争のしかたが総力戦に変わったことに気づかず、のちに、欧米の戦力をあなどることになる。 このころの日本は、大正時代であった。 明治天皇は、すでに亡くなっており、大正天皇が日本の天皇だった。 日本も第一次世界大戦に参戦し、日本はイギリスと 日英同盟を結んでいたことを理由として、日本はイギリス側である連合国(れんごうこく)の側に立って参戦した。 ドイツの基地が、中国大陸の青島(チンタオ)にあったので、日本は、青島のドイツ基地を占領した。 また、大戦中の1915年(大正4年)に中国政府(袁世凱の中華民国)に要求を出した。 二十一か条の要求(にじゅういっかじょう の ようきゅう)という。 要求の内容は、中国における、ドイツの山東半島などの権益を、日本が受け継ぐ事を認めさせる内容の要求だった。 また、満州や内モンゴルでの日本の権益を認めるさせることも、日本は要求した。 日本は、要求のほとんどを中華民国に認めさせた。 中国では民衆などに、日本への反対運動が起きた。 なぜ第一次世界大戦が起きたのか [ ] ヨーロッパ南東部の、ルーマニアやギリシャなどのある バルカン半島(Balkan)の支配をめぐって、オーストリアとロシアが対立をしていた。 ) 第一次大戦の前からバルカン半島では多くの戦争や紛争があり、 バルカン半島は「 ヨーロッパの火薬庫」(ヨーロッパの かやくこ、Powder keg of Europe)と言われていた。 なぜ、紛争が多いかというと、バルカン半島には多くの国や民族があるのであった。 ルーマニアやブルガリアやセルビアやアルバニアやギリシアなどが、バルカン半島に、あった。 1912年や1913年には、バルカン戦争が起きていた。 そしてセルビアではロシア系の民族であるスラブ人が多かった。 (ヨーロッパ各地のロシア系の民族をスラブ人という。 ロシア人もスラブ人である。 サラエボ事件 1914年に、 オーストリアの皇太子の夫妻が、ボスニアの首都の サラエボをおとずれていたときに、暗殺される事件が起きた。 この暗殺事件を サラエボ事件(サラエボじけん) という。 この事件の犯人が、 セルビア人の青年であった。 この事件に対する報復で、同年1914年にオーストリアがセルビアに宣戦布告したのが、のちの第一次世界大戦のきっかけであった。 そしてオーストリアの同盟国のドイツは、オーストリアを支持した。 いっぽう、セルビアの支持国については、ロシアはセルビアの支持をした。 ロシアと協力関係にあったフランスやイギリスも、ロシアの支持を通して、セルビアを支持した。 オーストリアの支持の側であるドイツは、セルビアを支持しているロシアやフランスやイギリスに対して宣戦布告した。 背景 では、なぜセルビアとオーストリアが対立していたのかというと・・・ オーストリアは1908年にボスニア・ヘルツェゴビナをオーストリアに併合したのだが、セルビアも、このボスニア・ヘルツェゴビナを併合しようとしていたので、このボスニア・ヘルツェゴビナをめぐってオーストリアとセルビアと対立していたのである。 では、なぜ1908年に急にオーストリアがボスニア・ヘルツェゴビナを併合したのかというと、中東のアラブ地方にあるトルコで、青年トルコ革命(せいねんトルコのかくめい)という出来事があり、この革命の混乱に乗じて、オーストリアがボスニア・ヘルツェゴビナを併合したのである。 青年トルコの革命については、説明しない。 中学生だったら、ここまで知っていれば、十分である。 (青年トルコの革命は、小学校や中学入試ではテストに出ないだろう。 ちなみに、日本が日露戦争でロシアに勝ったことが、日本人と同じく有色人種であるトルコ人に革命の気運をもたらしたのである、という見方をする説もある。 レーニン 世界大戦のさなか、ロシアでは革命が1917年に起きる。 ロシアでの、これらの革命を ロシア革命 (英:Russian Revolution)という。 ロシアでは、日露戦争のころから、ロシア皇帝の圧政(あっせい)に反対する運動があったが、第一次世界大戦による物資の不足などで国民生活が苦しくなり、ますます皇帝政治に対する反対運動が強まっていた。 そして1917年3月に、労働者の抗議(こうぎ)などの運動が起こり、軍隊もこの運動に同調した。 (三月革命) そして、退位後、ニコライ2世とその一族は革命政府により殺害された。 こうしてロシアの帝政(ていせい)は終わり、ロマノフ王朝(ロマノフおうちょう、英表記:House of Romanov)は終わった。 帝政にかわる、革命運動による臨時の政府が出来て、1922年には ソビエト社会主義共和国連邦(英語表記:Soviet)と呼ばれた。 日本語での呼び方では、短く略して「 ソ連」「 ソビエト連邦」などと呼ぶ場合もある。 こうしてロシア政府にかわり、ソビエト政府が、ロシアの領土を支配することになった。 1917年3月直後のころの臨時政府は、当初、第一次世界大戦の戦争継続の方針だった。 ソビエト政府も、第一次世界大戦を、ロシア・フランス・イギリスの三国協商のまま、イギリスやフランスと協力したが、革命によるソビエト国内の混乱もあり、ソビエトは戦争から引いていった。 ソビエトは各国に、無併合・無賠償・民族自決の即時講和を呼びかけた。 1918年に、ソビエトはドイツ側と講和して、ソビエトは連合国では無くなった。 ソビエトは、地主の土地を没収して、農民に使わせるために政府が管理するなど、社会主義的だと考えてた政策を行った。 ソビエトの政治の仕組みは社会主義(しゃかい しゅぎ)や共産主義(きょうさん しゅぎ)と言われる方式であり、当時としては新しい方式の政治の仕組みだった。 そのほかの教科書出版社は、おおむね、「社会主義」という用語を使っている。 ) 共産主義(きょうさん しゅぎ、英: Communism) ・・・ 日本語で「共産主義」といった場合の意味は、工場などの生産手段を国などの公共機関が管理することで、地主や工場主などの資本家(しほんか)による労働者への不利なあつかいをふせごうとする経済に関する主義。 生産手段を共有するので、「共産主義」という日本語訳なわけである。 だが、ロシア革命などの歴史的な経緯から、社会主義と共産主義とが混同されることがある。 社会主義と同様に、天皇制を打倒しようとする思想と混同された。 当時は革命思想と混同されたていたので、警察などから共産主義が強く取り締まられることになった。 (ちなみにヨーロッパで共産主義の思想を初めて唱えたマルクスとエンゲルスの二人は、ドイツ人であり、べつにロシア人ではない。 しかもエンゲルスにいたっては、工場主の経歴を持つ資本家の側の人間である。 ) 日本の中学校教育では、社会主義と共産主義とは、区別しないのが一般である。 実際、欧米でも、歴史的にも、似たような意味で「社会主義」と「共産主義」の語句が使われていた事もある。 ややこしい事として、現代(21世紀)の中国共産党は、名前は共産党だが、しかし経済の政策では、中国政府は企業の私有財産を認めているので、中国共産党の政策は「共産主義」ではない。 (かつては、中国は企業の私有財産を認めていなかったので、そのころの名残りで中国「共産党」という名前のままなのである。 ) 本書でも、とくに断りが無い限り、社会主義と共産主義を区別しないこととする。 ロシア革命後、ソビエト連邦が社会主義運動や共産主義運動の中心地になったので、ソビエトに従おうとする政治思想と共産主義・社会主義とが混同されることになった。 ソビエトの政府は、共産主義を目指していた。 そのため、土地や産業を国有化した。 共産主義はロシア以外には広まらなかった。 (のちに中国(ちゅうかじんみんきょうわこく)が共産主義になる時期は、第二次世界大戦のあとである。 ) 社会主義(しゃかい しゅぎ、英: socialism) ・・・ 社会主義は、意味があまり明確ではない。 歴史的には、慣習的に、マルクスの政治理念や、ソビエト連邦などの政策をあらわすのに、よく「社会主義」という言葉が用いられた。 言葉通りの意味は、「社会のみんなで、政治をしよう」とか「社会を良くする政治をしよう」というような主義であるので、ソ連やマルクスとは違う意味として、色々な意味で解釈される場合も多い。 日本では、社会主義が天皇制を打倒しようとする反乱の考えとも受け取られ、社会主義は取り締まりを受けた。 実際にロシアではロシア革命により皇帝が殺害されているので、まったくの無関係でも無い。 たとえ日本人の社会主義者に天皇制を打倒しようとするものが少なくても、外国の社会主義者はちがうかもしれない。 また、ロシアで革命が起きていることもあり、政府や警察からは、社会主義は「革命を起こして今の政府を変えよう」という革命主義かもしれないと受け取られる弾圧されていくことになる。 この時代と同じ頃、日本や欧米では労働運動で、労働者の地位向上を要求する運動がさかんであり、かれら労働運動家が「社会主義」を名乗ることが多かったので「労働運動によって労働環境を変えていこう」という運動が社会主義と同一視されることになった。 「社会主義」は、大元の意味が「社会のみんなで、政治をしよう」などといった、はっきりしない意味なので、いろんな意味に解釈されて、いろんな意味でこの「社会主義」という言葉が使われることになる。 シベリア出兵 [ ] 連合国は、ロシア革命が周辺国に広がることをおそれ、革命反対派に協力するため、1918年にシベリアに出兵した。 イギリス・フランス・アメリカ・日本が出兵。 日本は約7万人の軍隊をシベリアに出兵した。 これらの出来事を シベリア出兵(シベリアしゅっぺい、英: Siberian Intervention)という。 レーニンの死後 [ ] このころのアメリカの自国民むけの宣伝ポスター 『 Gee I wish I were a Man, I'd Join the Navy』 (1917年) 絵の女性は「もし私が男だったら海軍に入隊するのに」と言っている。 アメリカから支援された大量の物資や武器などにより、イギリス側の連合国が有利になった。 連合国の側にアメリカと日本という、当時の強国が2つも加わったこともあり、戦争は連合国に有利に進んだ。 そして1918年、ドイツが負けを認めて降伏(こうふく)し、よってアメリカ・イギリス・フランスの連合国が勝利して、第一次世界大戦は終わった。 ドイツとオーストリアは負けた。 イタリアは、戦争の途中で、連合国の側の支持へと変わった。 二十一か条の要求 [ ] 第一次世界大戦中の1915年(大正4年)に、日本は中国政府(袁世凱の中華民国)に要求を出した。 二十一か条の要求(にじゅういっかじょう の ようきゅう)という。 要求の内容は、中国における、ドイツの山東半島などの権益を、日本が受け継ぐ事を認めさせる内容の要求だった。 また、満州や内モンゴルでの日本の権益を認めるさせることも、日本は要求した。 日本は、要求のほとんどを中華民国に認めさせた。 中国では民衆などに、日本への反対運動が起きた。 戦後処理 [ ] ベルサイユ条約 [ ] ベルサイユ条約。 『ヴェルサイユ宮殿、鏡の間における講和条約調印、1919年6月28日』。 「ベルサイユ」とは、フランスにあるベルサイユ宮殿(きゅうでん)のことで、この場所で講和会議が行われたことによる。 条約の結果、ドイツは多くの賠償金を払うことになった。 ドイツは、フランスとの領土問題のあったアルザス=ロレーヌ地方(英表記:Alsace-Lorraine)を失い、アルザス・ロレーヌはフランスに渡された。 (アルザス=ロレーヌ地方は、炭鉱や石炭などの資源が豊富であり、そのためフランスとドイツとの間で、しばしば領土争いになる事の多い土地である。 ) そしてドイツが世界各地に持っていた植民地は、放棄させられた。 なお、イギリスなどの戦勝国は、べつに植民地を放棄していないので、植民地の解放運動の思想とは、無関係の要求である。 大戦前にドイツが持っていた中国の 山東省の権益や、ドイツ領だった(太平洋の) 南洋諸島の委任統治権などは、日本が受け継ぐことになった。 ウィルソン。 ウッドロー・ウィルソン。 ン(Thomas Woodrow Wilson アメリカの ウィルソン大統領は、 民族自決(みんぞく じけつ、self-determination)の原則などの理想を掲げた。 民族自決の原則などの要求をふくんだ「14か条の平和原則」をウィルソンは掲げた。 しかし、英仏などの戦勝国が、自国の植民地の権益を主張したため、ドイツが植民地を失った以外には、たいした成果はなかった。 なお、「14か条の平和原則」の主な内容は、秘密外交の廃止、民族自決、軍備の縮小、国際機関の設立である。 )どうやらアメリカでは、ウィルソン自身は人種差別の撤廃案に賛同したが、アメリカ議会が反対したようである。 ) パリとベルサイユは、それぞれ別の場所にある。 パリから南西方向に約20kmほどの距離の場所に、ベルサイユがある。 おたがいに近くにあるが、あくまでも別の場所である。 現代では交通機関の発達のため、パリとベルサイユの間を、バスや電車などで、たったの十数分ほどで行き来することも出来る。 なので、パリとベルサイユの両都市とも、フランスの首都圏にある内部にある都市あつかいする事もできる。 日本の高校での『世界史』科目の教科書では、ベルサイユの位置をさらっと説明したい場合などに、よく「パリ近郊(きんこう)のベルサイユ」というようにパリ基準の感じで説明することも多い。 日本語で「近郊」と行った場合、発展している都市に近いけど、ちょっとだけ離れたような、微妙なぐあいの場所にある場所のことを、いうこと多い。 ただし、「パリ郊外のベルサイユ」という言い方では、パリっ子にとっては自分の場所が「都市」あつかいされて満足だろうが、しかしベルサイユ育ちのベルサイユっ子にとっては、なんだか納得のいかない表現でもあろう。 フランスの歴史では、中世のころからパリは首都であるが、しかし太陽王ルイ14世の王室があった時代には、ベルサイユ宮殿を実質的な首都として時代もある。 しかしフランス革命のときには、革命政権がパリを拠点に活動していたという時代もあり、最終的にフランスは首都をパリに遷都した。 なお、フランスにはベルサイユの他にも宮殿がある。 パリには、たとえばルーヴル宮殿など、いくつかの宮殿があった。 (現代では、ルーブル宮殿の一部が美術館(ルーブル美術館)として活用されている。 ) 国際連盟の設立 [ ] アメリカ大統領ウィルソンの提案によって、平和を目的とした 国際連盟(こくさい れんめい、英:League of Nations)の設立が決まった。 そして1920年に、国際連盟が設立した。 国際連盟の本部はスイスの ジュネーブに置かれた。 スイスは、永世中立国(えいせい ちゅうりつこく、英: permanently neutralized country)である。 中立国とは、戦争の時に、どの外国にも協力しない、ということである。 スイスは軍隊を持っているし、もしスイスが攻め込まれたらスイス国民は自国を守るための戦争を行う。 ) スイスは中立国なので、国際機関の本部の場所として良いだろうと考えられ、スイスが国際連盟の場所に選ばれたのである。 この国際連盟と、のちに作られる国際機関の国際連合(こくさい れんごう、英:United Nations、略称:UN ユー・エヌ )とは、べつの組織である。 国際連合が作られるのは第二次世界大戦のあとであり、第一次世界大戦のあとの時代には国際連合(UN)はまだない。 国際連盟を提案したアメリカは、国際連盟には加盟していない。 アメリカ議会の反対により、アメリカは国際連盟には加盟していない。 新渡戸稲造(にとべ いなぞう) 日本人の 新渡戸 稲造(にとべ いなぞう)が、国際連盟の事務局の次長(じちょう)として選ばれた。 「次長」というのは役職のひとつで、二番目ぐらいにえらい役職のことである。 今日(2014年に記述。 )の一般の会社でも「次長」(じちょう)という役職があり、社長や部長などの次にえらい役職が次長である。 なお、国際連盟の常任理事国に、日本が入っている。 国際連盟は、ヨーロッパ人など白人の国家および列強国を中心とした国際機関であった。 当時はアフリカやアジアの多くは列強の植民地であったので、今の国際連合とは違って、国際連盟ではアフリカなどの主権をうったえることが出来なかった。 第二次大戦後の国際連盟ですらも、国際連合の設立直後は、戦勝国とヨーロッパ諸国など白人の国を中心とした連合であり、当初はアフリカやアジアの多くは植民地のままであり、代表者を国際連合に送ることは出来なかった。 とはいっても、べつに国際連盟の当時の国際協調の方針は、なにも植民地支配の正当化を目的としたものではないだろう。 国際連盟の設立者たちは、もっと単純に、世界平和や有効を願ったのだろう。 しかし、当時の現状の前提となる列強の身勝手な植民地支配もあり、やがて国際連盟の加盟国から、たいして植民地を持たないドイツや日本国などが国際連盟に反発していき、列強が二つの陣営に分かれ(植民地を「持つ国」「持たざる国」)、そして国際連盟は機能をしなくなっていく運命にある。 かといって、当時の帝国主義時代の、植民地をあらそう時代の、欧米の人たちに、もはや殖民地を独立させることは国防上からも無理であろう。 もう国際連盟の理念と現実との矛盾は、いわば「時代の限界」とでも言うしか無いのだろう。 もちろん、たとえ「時代の現代」だろうが、列強が植民地支配という「悪」(民族自決の観点から見れば)を行ったことには変わりない。 そして日本国すらも、欧米と同様にして朝鮮半島や中国へと植民地支配を広げていった「悪」の国となる。 この、植民地支配という悪行のために、やがて列強の各国は、「第二次世界大戦」という、とても手痛い犠牲を払うことになる。 ワシントン会議 [ ] 各国が、おたがいに軍備の保有量を減らして少なくするという軍縮(ぐんしゅく、英:Disarmament)のための会議が、1921年、1922年にアメリカのワシントンで開かれた。 この会議を ワシントン会議(Washington Naval Conference) という。 このワシントン会議によって、各国の海軍の軍事力を軍縮することが決まった。 イギリス・アメリカ・日本・フランス・イタリアの軍艦の主力艦(しゅりょくかん、英:Capital ship)の保有トン数の比が、 イギリス:アメリカ:日本:フランス:イタリア = 5 : 5 : 3 : 1. 67 : 1. 67 と、決まった。 主力艦以外の、補助艦については、まだ決まっていない。 また、日本・アメリカ・イギリス・フランスによる、太平洋における各国領土の権益を保障した四カ国条約(よんかこくじょうやく)が結ばれ、それにともなって日英同盟は廃止(はいし)された。 交渉の結果、日本は山東省を中国(中華民国)に返すことになったので、中国に山東省を返還した。 軍縮によって、軍事費の増大にこまっていた日本の政府は助かった。 だが、日本国内の一部の強硬派には、軍縮に不満も多かった。 このようなワシントン会議によって決まった国際社会の体制を ワシントン体制(ワシントンたいせい、Washington Naval Treaty) と言う。 ロンドン会議 [ ] ワシントン会議では、補助艦の保有トン数の制限については、決まっていなかった。 1930年のロンドン会議(英:London Naval Conference)では、補助艦の保有トン数の制限が決まった。 イギリス:アメリカ:日本 = 10 : 10 : 7 の比率である。 ロンドンはイギリスの首都で、ロンドンでロンドン会議が開かれた。 民族独立への運動 [ ] 第一次世界大戦の戦後処理で、アメリカ大統領ウィルソンが提唱した「 民族自決」(みんぞく じけつ)の理念にもとづき(「どの民族も、他の民族から支配されるべきではない」という思想)、オーストリアからはハンガリー、チェコスロバキア、ユーゴスラビアが独立し、ロシアからもポーランドやフィンランドが独立した。 しかし、この民族自決の理念は、ヨーロッパの民族の自決にだけしか適用されず、アジアやアフリカなどは、欧米の植民地のままであった。 東欧諸国の独立は、ドイツの封じ込めや、ソ連の封じ込めなどに都合がよい。 民主主義の成長 [ ] 第一次世界大戦の戦中や戦後に、ヨーロッパやアメリカでは、労働者や女性も総力戦に貢献したことから、選挙権を労働者や女性にも拡大するべきと言う要求が強くなっていき、実際に多くの欧米の国で選挙権が拡大された。 女性の選挙権は、イギリスでは1918年には女性に選挙権が与えられた。 アメリカでは1920年に男女の普通選挙が与えられた。 また、ドイツでは第一次世界大戦の終了のころに皇帝が退位して共和国となっており、ドイツでは1919年に ワイマール憲法が制定され、満20歳以上の男女に選挙権が与えられ、国民主権となり、労働者が労働組合を作る権利(団結権)が認められた。 また、すでに説明したが、ロシアではロシア革命により社会主義・共産主義が成長した。 ロシア以外の国でも、社会主義を掲げる運動が活発になった。 アメリカの発展 [ ] ニューヨークの高層ビル。 (1932年) 戦中や戦後、ヨーロッパが戦場になって疲弊したこともあり、国際社会での中心的な国が、イギリスからアメリカに、しだいに移っていった。 アメリカの工業や商業も発展し、ラジオや自動車などが大量生産され普及した。 映画やジャズ音楽なども普及した。 アジアでの独立運動 [ ] 欧米の列強は、アジアの植民地の運動を認めなかった。 しかし、ウィルソンの平和原則や、ロシア革命など、民族自決を重視する国際的な風潮に刺激され、インドや中国などのようなアジア各地の植民地では、独立運動がさかんになった。 日本も植民地として朝鮮半島を支配しており、また中国の満州などに権益を持っており、中国の一部植民地のように支配していたので、それら朝鮮半島や中国では、日本へ反発する運動がさかんになった。 朝鮮の独立運動 [ ]• 三・一独立運動(さん・いち どくりつうんどう、March 1st Movement) 朝鮮半島では、1919年3月1日に京城(けいじょう、今のソウル)で、民衆が、日本からの独立を求めて「独立万歳」(どくりつばんざい、独立マンセー)と言って行進する運動が起きた。 これを 三・一独立運動(さん・いち どくりつうんどう)と言う。 これをキッカケに朝鮮各地でも、日本からの独立を求める運動が起きた。 しかし朝鮮総督府は、これらの運動を取り締まり、武力で鎮圧した。 その一方で、総督府は強圧的な方針の一部をあらため、朝鮮人の権利の一部を拡大し、朝鮮での言論や出版や結社などを、部分的に認めた。 日本人の思想家である柳宗悦(やなぎ むねよし)は、三・一独立運動に関して、日本の朝鮮支配を批判した。 「反抗する彼らよりも一層愚かなのは、圧迫する我々である」と批判した。 当時、ほとんどの日本の文化人が朝鮮文化に興味を示さない中、朝鮮美術(とりわけ陶磁器など)に注目し、朝鮮の陶磁器や古美術を収集した。 柳宗悦「われわれ日本人が、今朝鮮人の立場にいると仮定してみたい。 おそらく義憤好きな我々日本人こそ最も多く暴動を企てる仲間であろう。 わがことならぬゆえに、ただそれを暴動といってあなどるのである。 反抗するかれらよりもいっそうおろかなのは、圧迫するわれわれである。 」 中国の運動 [ ] 五・四運動(ご・し うんどう)。 天安門広場にて• 五・四運動(ご・し うんどう、May Fourth Movement) 中国に権益を持っていた国は日本だけではなくヨーロッパ諸国も同様だが、しかし日本は「二十一か条の要求」で中国に高圧的な要求したばかりという理由もあり、中国での反・帝国主義の運動では、日本が主に敵視された。 1919年5月4日には、二十一か条の要求の取り消しを求めて、北京(ペキン)で学生による行進があった。 これを 五・四運動(ご・し うんどう)と言う。 これをキッカケに、中国の各地でも、日本への抗議運動が起きた。 日本の商品などへのボイコットも起きた。 (「ボイコット」とは不買運動のこと。 ) 中華民国は独立国である。 なので、「独立運動」とは言わない。 たとえ列強に権益を持たれているといっても、いちおう中華民国は独立国である。 このような情勢のもと、孫文(そんぶん、スンウェン)は中国国民党(ちゅうごく こくみんとう)を結成した。 また、孫文とは別の勢力が、中国共産党(ちゅうごく きょうさんとう)を1921年に結成した。 なお、孫文は1925年に病死する。 孫文の持っていた権力は、孫文の死後は、国民党の軍を掌握していた 蒋介石(しょう かいせき、チャンチエシー)が権力をにぎることになる。 インドの独立運動 [ ] ガンディー。 写真は伝統的な方法で糸をつむいでいる。 イギリスの紡績機械や綿製品などを使わないことを訴えかけた行動である。 インドの人々から尊敬され、「マハトマ」( 偉大なる魂(たましい) )と言われた。 ガンディーの行為はイギリスの取締りを受け、ガンディーは何度も逮捕・投獄された。 1948年に暗殺された。 イギリスなど欧米は、インドなど植民地のアジア諸国に対しては、第一次世界大戦中には、戦後の自治の拡大を約束して、協力を呼びかけた。 しかし、その約束は守られなかった。 インドでは ガンディー (Gandhi)などの主導により、自治やイギリスからの独立を求める運動が起きた。 しかしイギリスは、弾圧をつづけた。

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中学校社会 歴史/第一次世界大戦

第 一 次 世界 戦争 きっかけ

岡井盛夫:「NHK高校講座世界史」の要約 なぜ 第二次世界大戦が起きたのか? 第二次世界大戦は世界60カ国を巻き込み、5000万人以上の戦死者(兵士1700万人、民間人3400万人)を出した。 第一次世界大戦の終結は1918年、第二次世界大戦の開始は1939年、わずか20年で世界は再び戦火を交えることになった。 第二次世界大戦が始まるきっかけは、1920年代に起きたニューヨーク株式市場の株価の変動にあった。 この大恐慌のニュースが、第一次世界大戦後の世界を支配していた新たな世界秩序を次々に崩壊させていった。 世界秩序とは、ヨーロッパでは ブェル サイユー体制、アジア・太平洋地域では ワシントン体制が、国際関係の基軸になっていたことであった。 これら体制が崩壊することにより、第二次世界大戦が始まった。 ヴェルサイユー 体制 1919年、第一次世界大戦後の処理をめぐって、フランスのパリで講和会議が開催された。 戦勝国による、「ヴェルサイユ体制」と呼ばれる新しい国際秩序の誕生であった。 敗戦国のドイツに対して、植民地の放棄・軍備制限・多額な賠償金の支払いなど、過酷な条件を課した。 このとき組織されたのが、国際連盟であった。 ヴェルサイユ体制の維持を目的とした、本格的な国際平和機構であった。 ヴェルサイユ体制によって、多額な賠償金の支払いに苦しんだドイツは、経済復興をアメリカの資本に依存していた。 ところが、世界恐慌が起こったため、支援を失い失業者が急増し社会不安が高まった。 ワシントン体制 1921年から1922年まで、アメリカ主導によるワシントン会議が開かれた。 これによって成立したのが、「ワシントン体制」という東アジア・太平洋の国際秩序であった。 1 大恐慌、ニユーディール、ブロック経済 アメリカ・ニューヨークのウォール街は、ニューヨーク証券取引所をはじめ、世界各国の証券会社や大手銀行などが集中し、全世界の金融市場を牽引している。 第一次世界大戦で直接の被害を受けずに済んだアメリカは、大戦中、イギリスやフランスなどに大量の軍需品と多額の資金を供給した。 そのため、債務国から債権国に転じ、世界的に優位な地位を築いた。 アメリカの経済発展は、主に自動車・化学・電気工業などの新しい産業によって担われ、大量生産と大量消費の時代が到来した。 これをきっかけに、アメリカ国内では破産や倒産が続出した。 アメリカの大恐慌は、ほかの国々の経済にも波及し、 世界恐慌が始まった。 失業率は改善されず、多くのアメリカ人の不満が高まり、ヨーロッパを始めとする他の国にも深刻な影響を与え、世界恐慌に発展した 1933年3月、大恐慌のさなか、フランクリン・ローズヴェルトがアメリカ大統領に就任した。 ローズヴェルトは、大恐慌に対して「 ニューディール」という政策をとった。 政府主導によって、ダム建設などの大規模な公共事業を起こし、失業者を救済した。 一方、深刻な経済危機を打開するために、イギリスやフランスは ブロック経済 を作った。 本国と植民地・自治領など勢力下にある国々などを囲い込み、その中で自国の産品を輸出し、ほかからの輸入を抑えるという排他的な市場圏の形成であった。 他の国の資本や商品が入ってこないように制限する、ブロック経済であった。 列強にとっては、ブロック経済は大恐慌対策であった。 ブロック経済は、植民地など広い領土を持つイギリス、フランス、アメリカにとっては極めて有効であった。 しかし、植民地を持たなかったドイツや日本などは経済的苦境に立たされた。 ナチスは、この社会不安は共産主義者やユダヤ人などの陰謀であると訴え、共通の敵をつくりあげていった。 それは社会不安の中で展望を失った人々をひきつけ、徐々に大衆の支持を得ていった。 大恐慌後、ドイツでは社会への不満が蔓延していた。 ヒトラーは、公共事業、特に軍需産業に力を入れて、失業者を減らすなど経済を立て直した。 独裁体制の樹立と領土拡張によって危機を克服できると訴えた。 こうして、ヴェルサイユ体制は崩壊していった。 これに対し、9月3日に英仏両国はドイツに宣戦し、 第二次世界大戦が始まった。 同じように、イタリアでもムッソリーニが結成したファシスト党が、一党独裁政権を確立していった。 ヒトラーやムッソリーニの政治体制や思想は、 「ファシズム」と呼ばれている。 ドイツ・イタリアでは、国家主義を掲げ、市民的自由や人権を無視するファシズムが台頭した。 1931年、日本の軍部は、当時「満州」と呼んでいた中国東北地方で軍事行動を開始した。 「 満州事変(1931〜33年)」であった。 日本は、中国東北地方の大半を占領し、満州国を成立させた。 こうして、ワシントン体制は崩壊していった。 日本は国際的に孤立した。 しかし、メディアは称賛し、国民も圧倒的に支持した。 1937年、盧溝橋(ろこうきょう)事件をきっかけに、日本は中国との間で 日中戦争を開始した。 戦いは長期化し、戦局は泥沼化した。 1939年9月、ヨーロッパで、第二次世界大戦が勃発した。 1940年9月、国際社会で孤立したドイツ・日本・イタリアは、日独伊三国同盟を結んだ。 <日本の、アメリカ・イギリスへの宣戦布告> フランスがドイツに降伏したことで、日本はフランスの植民地だったフランス領インドシナに軍隊を進めた。 ここにある石油資源の獲得を目論んだ。 この軍事行動に、アメリカは態度を硬化させた。 1941年8月、アメリカは日本への石油の輸出を全面的に禁止した。 アメリカに石油のほとんどを頼っていた日本は、窮地に立たされた。 アメリカとの交渉決裂を受け、日本時間の1941年12月8日、日本はハワイの真珠湾奇襲とマレー半島への進軍を実行した。 日本は、アメリカ・イギリスに宣戦布布 した。 ドイツとイタリアも、アメリカに宣戦し、「枢軸国」が形成された。 アメリカ・イギリス・ソ連などの「連合国」との間の第二次世界大戦は、60カ国以上が参戦し、全世界に広がった。 ドイツ、イタリア、日本の降伏 ヨーロッパでは、ドイツがユーゴスラビアやギリシャを制圧し、ソ連の首都モスクワにも迫った。 ドイツ国内では国家の利益が優先され、個人の人権を否定する全体主義が徹底された。 純粋なドイツ人 アーリア人 」という虚像を作り上げ美化された。 その犠牲になって、ユダヤ人系市民が迫害された。 絶滅政策を横行し、強制収用容所で、600万人が殺害された。 (1)当初優勢であった日本は、 ミッドウェー海戦で大きな打撃を受け、徐々に劣勢に追い込まれた。 (事実と異なる情報が流された) (2)一方、ドイツもソ連に敗北し、アメリカイギリス連合国の反撃が強まった。 (3)1943年9月、イタリアが降伏した。 (4)1945年5月、ドイツが無条件降伏した。 (5)1945年8月、広島と長崎に原爆投下された。 30万人以上の一般市民の犠牲になり、連合国が出した無条件降伏を受諾した。 (6)1945年に終結した第二次世界大戦の戦死者は、全世界で兵士およそ1700万人、民間人3400万人であった。 合わせて5000万人以上の死者を出した。 史上最も悲惨な世界戦争であった。 当初は劣勢だった連合国側は、1942年のミッドウェー海戦、1943年のスターリングラードの戦いでの勝利をきっかけに優勢に転じた。 1943年9月にイタリア、1945年5月にドイツが降伏した。

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